え〜、脳出血で急遽入院しまして、ちょっとお休みをいただきました。
幸い、軽症で手術をせずに済み、目下、リハビリに励んでおります。
そのうち、リハビリ日記などを載せようと思っております。乞うご期待!
近所の農家がマンションを建てることになり、敷地内にある樹齢100年を超す見事な木が邪魔ということで切り倒したところ、今までクーラーなど必要なかったのに、その年の夏からクーラーをガンガンかけなければ過ごせなくなったとボヤいていました。で、このアイデアは、そのお百姓からパクらせてもらいました。ズルイデスネェ。我が家は来年から窓際にプランタを置いてゴーヤを育てて、夏を過ごそうと思っとります。
古今亭志ん五さんが、突然旅立ってしまいました。還暦っていう年齢は昔で言う厄年なんでしょうか。体力を付けて寄席に行くのを楽しみにしていた矢先にこのニュース。粋な落語を聴かせてくれる噺家が少なくなってきている昨今、もう一度志ん五さんの噺をライブで聴いてみたかったなぁ。
ラッキーという名前の柴犬が、1歳の想定で始まった連載も20年をゆうに過ぎました。人間で言うと100歳超。長寿犬と共に過ごした男の子が連載当初は小学校低学年でした。その子が巣立ちをして、いつの間にか結婚までしていたんですね。作者の方はというと、還暦過ぎて脳出血。先日は同年の知人の訃報通知、せめて出来ればラッキーや飼い主一族の長寿のギネス記録を祈りたいものです。
1988年10月の第一回目から早22年が経ちました。ラッキーと共に生活の小学校低学年の男の子が結婚。感無量です。またここまで連載を続けさせて頂けるとは思いもよりませんでした。とりあえずここで一休み致します。
1988年4月から始まった犬の名前だけ分かっているこのヘンテコな漫画も、まさか四半世紀以上続くとは思っていませんでした。
当初はおじいちゃんと小学生のわんぱく坊主との生活だけでしたが、両親と妹が(1991年7月に)外国から戻り、おばあちゃんも他の国から(1993年5月)帰国(学者だったんですねぇ、私知りませんでした)、ようやく3世代家族のごくごくあたりまえの家族の、折々の時代のスケッチが描け、いつの間にか私のライフワークになっていました。
一昨々年4月に、まだ連載は続いているとはいえ、残りのストックが心配になり、強引に第一部としてお休みしましたが、早朝の地震といい、ご近所の熟年独り身男性の救急搬送騒ぎなど(つい最近も実家のお隣に住む団塊世代で一人暮らしの男性も突然の彼岸片道詣でがあったばかり)もあり、(私の寿命も)悠長に構えても居られないので、わんぱく坊主だった長男の結婚祝いの御礼からまた再開とします。
おじいちゃんと、小学生だった頃から一緒に暮らしていた長男が、家族から巣立って行って結婚。久々に帰って来たので、何とかしてスキンシップの願いを外されてしまう愛犬のガッカリシーンです。
が今、子どもの巣立ち(結婚)後は核家族が当たり前、の風潮に慣らされている自分に愕然としています。
名前は未だに不明だが、長男に続いて妹も結婚の巻。
無神経で無自覚な輩から「早く結婚しろッ!」と、言われなくても、逃げ隠れすることなく、結婚相手を親に引き合わせる、凛とした日本人はまだたくさん居ます。・・・それにしても、いざという時の男親のこの不甲斐ない態度は、解せません。
ラッキーの家のお向かいに住む犬好きの姉妹とのエピソードです。
我が家にも老犬(推定90歳)の芝犬が居て、4年前までは犬の散歩は私の仕事でしたが,病後はカミさんが(ごくたまに)散歩と介護の仕事を増やしてしまいました。
『かっぱ川太郎』が代表作で、戦後の昭和30年代に南画風のイラストレーションを駆使して、政治漫画や似顔絵などでも活躍した清水崑さんに憧れていた。いや、今もですね。
著書のひとつに『子守りの合唱』という東峰書房から出版されたカッパ漫画があり、出版の前年の昭和29年に、朝日新聞で四コマ漫画の連載で100話を通してみると一つの流れになっている実験的な漫画が本になっていました。
当時、貸本屋が潰れ始めていた頃で、野毛山の親類の近くの元貸本屋からこの本を格安で手に入れて、書棚に入れたままになっていたのが、記憶の片隅に残っていたんでしょうね。
漫画の連載の話を貰ってから、一話完結の大きな流れの、【愛犬と家族のエピソード】の歴史を最初からこの方法で作ろうと計画した訳ではなくまた、それが成功したかどうかは分かりませんが、清水崑さんの『子守りの合唱』をリスペクトしていたんですね。
作者初登場。日頃の思いが絵になりました。
退院して、5年目に近づいてきます。
我が家の芝犬・プーさん(推定白寿)と散歩に、行けないことはないと思いますが、怠けっぱなしです。
今朝は妙に左肩が重く、動きづらいと感じていたところ、窓の外は雪。
朝食後に気づいたので、埼玉南部の降り始めは多分8時頃のようだ。
地球温暖化と騒がれて昨今、4月上旬の寒波は珍しくはないと思うが、今時の降雪は思い起こしても記憶には無く、私には風流でも何でもなく、厄介で迷惑な春雪となりました。
3月初めの頃に戻ったような寒さが続いている。
半身麻痺の身にすれば、この寒さは巨人の手で体全体をきつく握られているように感じ、普段以上に行動の自由を奪われます。
昨日の夕方は近くのスーパーで、私とまったく同じ程度の症状と覚しき30代の男性を目撃した。
スーパーの入り口と駐車場を挟む、車が頻繁に通る4メートル幅ほどの車道を、時間をかけて歩いて横断するのをヒヤヒヤしながら見た。
半世紀前は往来で目にすることが少なかったと思う障害者を、近年はよく目にするようになった。
何にしても、病気に負けない気力、体力、(人目を気にしない)楽天家気質?はあった方が良いようです。
昔々、昭和30年代初め頃、上から2番目の姉の結婚式は、自宅だった記憶が残っている。
指物師の職人の家だったので、6畳二間と仕事場の4畳半、台所と厠のごくごく狭い家だったが、当時、庶民は自宅か近所の行きつけの店の二階で結婚式を挙げるのが普通だったと聞いている。
で、この謡曲「高砂」も、その時ハスキーボイスだった叔父が歌った(?)のが、記憶の隅に微かに残っている。
この一本調子の、どう聞いても楽しくなるような明るい曲でもない歌?が、昔からめでたい席で歌い続けられていたのか分かりません。
落語にも『高砂や』として大店の息子の結婚式の席で、松、梅、竹の名前が付いた職人が呼ばれて、歌い出しで失敗する噺が残っています。
病気になった時、ある程度まで体力と気力が戻らなければ、病院で診察を受けたいと思っても、自力で体を動かすのは無理なようです。
昨日の朝食後、カミさんは咳や喉の痛みが治まってきたので、近くの病院に行きたいと言い出した。
体力が戻ってきたのはいいが、病院までの車中助手席で喋りっぱなし。
喉の痛みで会話が満足に出来なかったストレスからか、家内から数日分のおしゃべりを運転中もろに浴びて五月蠅いのなんの。
病院に着くと、マスクをした風邪気味(?)の患者が入り口付近まで溢れだしていた。
案の定、家内の診察までには時間がかかり、診察を終えたのが昼過ぎ半ばだった。
この日はリハビリ訓練日で、デイサービスの車が迎えに来る時間までは間に合わず、急遽電話で断って、自分の車で行くことになった。
昼食も満足に出来ないほど忙しい医者に、喉の痛みが消えた家内と、改めて感謝した日でした。
長らく手が付けられなかったので、本日からオートマタ制作に没頭致します。
完成するまで、しばらくブログはお休みさせて頂きます。
カラクリの画像をホームページ用に用意していたのですが、我が愛機のご機嫌が悪く、別に用意してあったこの絵で代用となりました。
液晶テレビが突然映らなくなった。
画面にB-CASカードの読み取りができなくなった云々と、ある。
ブラウン管テレビだった頃、それも昔々はテレビの頭を二三発叩けば、復活できたんですがね。
液晶になって、人間の肌の毛根まではっきりと分かるくらいになった画面でも、写らなければ粗大ゴミ同然。
・・・何故?・・・誰がカードの読み取りなどという面倒な機能を付けたのか、知りたくもないが、「金返せ!」と、言いたくなってくる。
朝食後に、母親に電話してその後の体調を聴くと、大丈夫だという声で一安心。
どちらともとれる返事の後、雑用がたまっているという。
急遽、群馬へ向い、灯油や米等々買いに走り回り、帰宅後は・・・プチダウン。
昨日は月一の定期検診とリハビリ訓練で一日が終わった。
また、本日は家内の検診結果を聞きに、朝7時半からドライバーを努め、午後2時まで数ヶ月分の細々した雑用をこなしてプチダウン。
雑用で振り回されたとしても、現在の理想体重で体力が覚束ないのは情けない。
もっと肉を摂取しておけばと今更反省しても後の祭りで、肉食生活を願っては理想体重維持は無理となる。
昨日は漫画家の水木しげるさんが亡くなったニュースが飛び込んできた。
あのお体で93歳まで健康を保たれていて、パワフルに仕事をこなし、なにより半世紀以上の長きにわたって右腕だけで、日常生活を工夫して過ごされていたことに、喝采と尊敬の念が湧いてくる。
作品の奥底に、古典落語の名高座を寄席で聴いたような、飄々とした味わい深い画風も魅力的だった。
長い間我が国の妖怪地位向上に勤まれた水木しげるさんの、ご冥福を祈ります。
愛犬ラッキーを再開します。
私のライフワークになるこの漫画も、最初はお爺さんと孫の二人だけの家族からだった。
名前が付いているのは、この柴犬だけというアバウトな設定で始まった。
1988年10月から現在までの登場だから、このラッキーの年齢は33歳という理屈では通らない長寿犬になる。
お爺さんも初回から変わらず、孫だけは成長して青年になっている。
初回から三年後に、二人と犬と猫の生活から家族は増え(実際は帰国)、最後に加わったおばあさんや、家族全員の名前は未だに分かりません。
名前があるのはラッキーとメス犬のリボン、それにトラという名の猫だけ。
回を重ねるうちに、毎回画面に登場することはなくなったが、私の頭の中では元気にラッキーとリボンは走り回っている。
中学生時代、同級生にオウムを飼っていたパン屋の息子が居た。
パンを買いに来た客が、店員を呼ぶと店の奥から[ハーイ」という返事はするが、何時までたっても店員は現れず、オウムの仕業だったということを聴いたのを思い出して描いてみた。
オウム関連でもう一つ。上方落語で大御所だった笑福亭松鶴(1918〜1986)という強面の噺家もオウムだか九官鳥を飼っていて、客が来意を告げると家の奥から松鶴の声で「誰や」、これを何度も繰り返したということを松鶴の弟子の噺のまくらで聴いたことがある。
高校時代の同級生に、パトカーのサイレンをそっくり真似ることが出来た奴がいて、何度も車を止めたことがあると自慢していた茅ヶ崎の男も友人の一人だった。
思い返すと変な友人が私には居ました。
類は友を呼ぶ?・・・・まさか。
先月末の木曜日に3回目接種の通知がきて、即接種会場を予約した。
翌々日、通っているリハビリ施設でクラスターが発生したと電話があった。
全国的にも埼玉県は罹患者が増えていたので、万一の予測はしていたが、暫く運動はお休みとなった。
こんな時は、コロナの台風が通り過ぎるまで、用心に用心を心がけて過ごすに限るのだ。
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