若干二十歳前後の若者たちの台頭で、ゴルフブームが再燃しているようです。
巻き舌で怒る親熊の図。随分とツバキが飛び散っています。
目線
夜明け前のライバル
ゴルフ依存症
風力本願でカップ・イン
紅葉と抜け毛の秋
瞬間湯沸かし器、沸騰中にカップイン
泥棒カラス
すまじきものは・・・
バードマン
今年の年賀状は新年にずれ込んでの印刷でした。大病してからは、時間はたっぷりあるからと焦らなくなってしまいました。いけませんねぇ。
フリーランス第1号作品。1978年3月の企業広告イラストからの出発でした。
色鉛筆時代の企業広告カーツーンです。これが印刷物になったんですから、懐の深いのんびりした良い時代だったんですねー、昔は。
1997年まで彩色は色鉛筆を主に使っていました。この頃の前後から画材がカラーインクに替わっていきました。色鉛筆で彩色するってのは結構体力勝負だったので、画材を替えていったんですね。ズルイなぁ。
私の職業の出発点はブラック・ユーモアの一枚マンガでした。
世の中が今のように多様化してくると、すべてブラック・ユーモアに囲まれているようなもので、生活して行けるハズもなく考えを変えなければ生きていけません。
それでも40年ほど前までは世の中に余裕があったのか、ブラック・ユーモア全盛といえないまでも結構目にしました。
生活出来ないと分かっていても一枚マンガからは離れる事が出来ず、暇が出来て気が向いた時はごくたまに孤島マンガを描いていました。そのうちの一枚が上の絵です。
フリーランスの出だしに、幸運にも小説月刊誌で初めて連載を貰ったとき、最初の一歩がブラック・ユーモアの一枚マンガ、『拒否する孤島』でした。
言葉の遊びで孤島に行く時に、何かひとつだけ孤島に持っていってもいいと言われたら、あなたなら何を持って行きますか?と、話題が振られたら私は躊躇なく(鉈)か(手斧)と答えます。
欲をいうと、ボゥイーナイフのような鉈が。
百科事典?・・・とんでもない!一枚マンガのアイデアの出だしには役に立つかもしれませんが、二ヶ月しないうちに餓死かも知れません。
こういった軽めのマンガはタイトルなんか付けない方がいいんですが・・・。
私の甥の一人が小学生低学年だった頃、登校中に富士山が見事だったので見とれて電柱にぶつかったというエピソードを持っています。間違いなく私の甥だ!と思いましたね。
日刊ではありませんでしたが、初めての新聞連載マンガです。掲載は通常の新聞マンガと同じ縦組みでした。
冠婚葬祭タイムス19号の、昭和58年5月から約二年間にわたって発表。我が家で最初に飼った柴犬ケンゴをモデルに活躍してもらいました。
この新聞マンガの設定は、愛犬と一緒の生活に憧れていた頃でしたので、すんなりと決まりました。
本格的な寒波到来の今日は、犬の散歩にも最適の天気となりました。
私も愛犬と散歩が出来ていれば着脹れのこんな格好で、カミさんの「私も笑われるじゃないのッ」という声を背に田んぼ道に向かったでしょうね。
新年おめでとうございます。
今年は例年より仕事始めが早く始まると聞きました。
年頭に当たって例年と同じく無理せず自然体で病後の体や仕事に、そして趣味に向き合っていくつもりです。
本年も宜しくお願いいたします。
長女が生まれたばかりで、証券会社でアルバイト生活の頃の、投稿作品第一号です
実質ここからが出発でした。
20数点描いたんですが、掲載は月を跨いで3点のみ。月刊小説宝石でした。
本当に運が良かったとのと、心底ホッとしました。
現在の証券会社は、モニタで株の流れが瞬時に分かりますが、以前の証券会社でのアルバイトに、ラジオから流れてくる午前と午後の株式市況を直接黒板に書き留めていく仕事がありました。
600以上ある一部上場企業の銘柄が付いている黒板は、約6ー7メートル幅で高さ1メートル弱の台の上にあり、チョークで株価の上下を瞬時に修正していかなければならず、午前と午後たっぷり二時間縦横に動く体力と、技術が必要でした。
素早い動きなど縁遠い運動神経皆無の自分でも、崖っぷち生活だからこそ出来たんでしょうね。
子供が生まれては、いつまでも夢を追ってはいられません。
覚悟を決めて水道橋にある工業系の小さなデザイン会社に就職することになりました。
毎月3ー4点描いたものを、編集部の方でセレクトして月一点掲載。この頃は本郷三丁目駅近くの小さなデザイン会社に通勤していたので、こういった環境から出たアイデアが多かったんですね。
(前回の続き)小さな(社員3人の)工業系デザイン会社で二ヶ月も過ぎた頃(だったか)、突然カミさんから仕事中の私に電話がきて、ハクホウドウという所から電話があって、連絡して欲しい旨の緊急連絡でした。
折り返し電話を入れると、私の漫画を企業広告で使いたいとのことで、願ってもない話でした。
当時の私は社会人として勿論半人前で、企業広告など知識ゼロでしたので何の知識もなく、ハクホウドウの名前は何処ぞの老舗和菓子屋か漢方の店かと勘違いしたくらいでした。
(続き)私には畑違いのファッションイラストは、編集部ではどのくらいの画力かを見るためのものだったようで、当時色鉛筆で彩色も物珍しかったのか小さなカットでしたが即注文があり、その後も週間プレイボーイ誌に車や地図、説明画など畑違いの分野も厭わず描きまくり、後年雑食性イラストレーターとしての基礎を鍛えてもらったものでした。
上の絵は最初のコンタクトの時に、博報堂に見本として持って行った習作の一部、ゴルフ狂のロッククライマーの一枚漫画がゴルフツアーのパンフレットとなって使って貰ったもの。
(続き)2ページと3ページ目。
二代目桂枝雀さんの落語のフレーズ、「鋳掛屋のおっさんが軍艦の注文を受け(とっ)た」時のような、鋳掛屋のおっさんの気持ちを味わった大仕事でした。
(続き)4ページと5ページ目。
(
続き)6ページと7ページ目。
6ページ左の絵が、最初の打ち合わせの時に見本として持って行ったロッククライマーの絵。すべてはこの絵から始まり、1980年の自費出版カレンダーの表紙にも使いました。
(続き)8ページと9ページ。
10ページ目は力作をと釘を刺され、七転八倒した後神田古本街へ気分転換に出かけ、水道橋駅を降りたって神保町へ向かった最初の角で、突然アイデアが浮かんだのが、表4の「夜明け」。こんな(ラッキーな)経験は後にも先にもありませんでした。
近年はお子さんをお持ちの家庭からも豆まきの声が絶えているようで、寂しいかぎりです。
【また計算が違った】シリーズの次、同じチームで今度は月刊ゴルフダイジェスト誌に。
始めるにあたってコピーライターから「熊のよだれ」という不思議なワードの注文が出た曰く付きの一枚。
月刊小説宝石に連載中に、月刊小説推理から声がかかって描いた二点で、1979年頃だったと思います。
ペンネーム無断で替えられてしまいました。
タイトルページ裏側に、
小説宝石誌に昭和51年11•12月号拒否する孤島、昭和52年一月号より特選漫画パレードに連載中、と薄く書き込みがあり、出版社持ち込み用に描いたもの。
他に、旧住所と電話番号、年齢(30才)と記してあり、持ち込み後、すぐに掲載してもらえるよう描いたつもりでしたが、ポッと出の新人が描いたブラックユーモアを受け入れる土壌はなかったようです。
5コマ目に、釣り人の後ろで岩の割れる音を付け足していれば、もっと効果的だったんですが、ね。
昔、リーダーズダイジェストってな月刊誌がありました。
私が一枚漫画に夢中だったまだ結婚前のこと、コラムの小タイトルに『安らかな死期を迎えるために』というコピーが目に飛び込んできて、処女作品集のタイトルは早々に決まりました。
以来ン十年、処女作品集は何処に行ったのやら。
更新している当人も、そろそろ飽きてきました。技術は一本調子。引き出しはカラッポ。
私が寄席の客だったら噺の途中だろうが黙って席を立ってロビーまで行って行ってしまうとことです。
これを描いていた頃は、工業系デザイン会社在籍中の精神的におかしくなっていた頃の作品。
長女は幼稚園児の年少さんで、ピンクレディの「UFO」歌いまくり、長男は〇歳児にして空間に向かって何やら話していた頃までは記憶にあるんですが、ほかは未だに記憶が戻りません。
未発表はこの他、「くたばれヒーロー」(モハメッド・アリとアントニオ猪木戦があった頃に描いたもの)「ロック・クライマーのユーウツ」(この作品が一番新しい)「続・死に方」(懲りずに挑戦、バカだねぇ)
この後二回、苦行は続きます。
敬愛するある昆虫学者が一人で、深夜山中で昆虫採集をしていた時に、それらしき人物に度々出会い、夜のしらじら開けまで話に付き合って結果人命救助を何人かされた話を聞きました。
重たいテーマを続編まで描いたのには無論訳もあります。
独身時代一枚漫画に飢えると、神田古本街に数件あった洋書点へ行き、バイトで手に入れたなけなしの食費から「ニューヨーカー」やら「ロンドン・パンチ」を買い、時には個人画集を手に入れて一枚漫画の表現方法をを覚えていった。(アパート代まで手を出すと数ヶ月は絶食の憂き目をみてしまいます)
アイデアが浮かんでも絵にするには、画力が無ければセンスもへったくれもなく、思い切って芸術大学に挑戦、(無自覚と単細胞はこの頃から)取りあえずお茶の水にある学校でデッサンを習うことになった。
当時は大学紛争のまっただ中で催涙弾で涙を流しながら木炭画に励んでおりました。
SEIKO World Super Tennis oct31-nov.5 1978 のパンフレット。
デラックスプレイボーイでご一緒したデザイン会社代表から初めて頂いた大きな仕事でした。
その後近年までお付き合い頂いて、全てにおいて助けてもらいました。
愛鳥週間は5月10日からでした。ボケたかな?
以前はは田んぼの脇になすやきゅうりに割り箸をさして作った馬や牛のお供えをあちこちで見かけましたが、近年はめっきり少なくなりました。迎え火をたいて先祖の霊を供養するお盆の風習を家族のなかで若者に教える年寄りがいなくなっているんでしょうね。
これも以前は夜眠れないほどの大合唱だったのが、農業振興地区に住む私の家の周りの田んぼからウシガエルの耳障りな鳴き声が途絶えて十数年経ちます。カエルの苦手な人はいがいと多いんですね。もうオタマジャクシの時期はとっくに過ぎましたがアマガエル、トノサマガエル,ダルマガエル、ヒキガエル、アカガエル等々見飽きないんですがね、私には。
愛犬ドン(?)の夏バージョンが貯まっているので、しばらく展開していきます。
十数年前の愛犬が三匹(雑種の親子三代のメス)居た頃、団子になって朝の散歩をしていた秋のある日、近くの農家のオニグルミの実がぶどうのように鈴なりになっていて、庭から農道に突き出た枝から落ちた実を数個拾ってきて、東南と西側の猫の額ほどの我が家の庭に種を埋めたところ、見る間に伸びて10本ほど1メートル位の背丈に育ちました。
その内4本は館林の実家に植え替え、残りは成長を楽しむつもりで見守っていたのですが、私は通常の庭木に興味が無く、カミさんはその真逆で、隙を見て抜かれてしまいました。
現在は一本だけ残った鬼ぐるみの木を下から枝を通して空を見るのが好きで、これだけは切るなとカミさんに厳命しているんですが、毎年夏になると駐車場の脇のオニグルミの木の葉にアメリカシロヒトリが繁殖してしまいます。これを理由に親の敵のように鬼ぐるみを切ろうとします。
今日寝起きに鬼ぐるみの枝を通して空をみていたら、数カ所幼虫の巣が若葉にあるのを発見、またカミさんに騒がれる前に何とかしなければならず、憂鬱になってしまいます。
現在木工の作業環境作りが8割がた進んでいます。 昨日はベルトサンダーをかける必要から家の外の作業になり、病後初めて装具無しで庭にでてみました。
左足の緊張は足の指が手で言うとグー 状態になるので、ビーチサンダルを使うことにしたところ、親指と人差し指に鼻緒を差し込むといい具合に固定できたので、転倒と捻挫に気をつけて作業。
愛犬のプーさんが掘り起こした凸凹の地面を相手に、物置から工具と簡易作業台を引っ張り出し、冷や汗と緊張と猛暑で兎に角記念すべき大変な一日でした。
農業振興地区に引っ越してきた当初驚いたのは、仕事先からの帰り終電車で乗り過ごして隣の駅まで行ってしまい、駅前からタクシーを拾っての戻り道。
あたりは人家の明かりが見えない真っ暗闇で、車の明かりに吸い寄せられたかして、ゴツッゴツッとカブトムシがタクシーに体当たりしてきたのには驚きました。
丁度子供たちが夏休みだったので翌々日早朝、早速カブトムシ拾いに車で行きましたが場所を間違えたのか一匹も無く翌日翌々日もトライしましたが、この頃からですかねぇ、親父に信用が無くなったのは。
子供たちがとても可愛かった頃の昔むかしの出来事でした。
三日前に見つけたオニグルミの葉に巣食っていたアメリカシロヒトリを、極小の草刈り鎌を釣り竿の先に固定してやっと半分ほど駆除しました。
片手で竿を持って腕を上げると、左半身の緊張が無意識に出て左足は硬直するのでバランスをとるのがやっとです。
毎朝神棚の水を替える度に、2メートル上の棚にあるコップを手にする時より、重量があるので余計に緊張が強くなります。おまけに昨日は久しぶりの雨模様だったので雨宿りしながら、小雨の度に数回に分け、手の届く高さまでの巣は取れました。残りは今日木工作業の合間に何とかしなければなりません。
夏祭りの季節真っ盛りですね。
花火大会やら神輿担ぎ等、夜遅くまで騒がしくなります。
今年も自治会主催で花作りや、樽神輿の飾り付けの鈴や鳳凰磨きから始まって村人(?)が一から組み立てました。近年は都会から引っ越してきた核家族の若夫婦が多くなってきたこともあり、昔からあった村の風習が薄れ、村の集会の人数も少なくなってきたようです。
以前は存在感があった村の長老たちの影が薄れ、私の住む環境も都会化が進み、引っ越してきた当初は絵本の絵のような古来からの村の風景だったんですが、今はプラモデルのような家ばかりとなりました。
花火大会があると家の近くの田んぼのあぜ道から、大宮で打ち上げている花火が見えたり、二階のベランダで川越の方角の花火が見えたこともありました。が、今は歩くことに必死で花火見物の余裕はありません。
もう少し左足膝の筋肉がつくといいのですが、無理すると取り返しがつかなくなるぞと、大病経験を持つ監視人に脅されます。
去年までは背中がテーブルのように広かった柴犬の雑種愛犬プーも、今年の春逝ってしまった雲隠れの半蔵が我が家に来てから半年後なので約14年。
生後1年弱くらいで飼い始めたので人間の年齢にすると何才くらいでしょうか。 すでに耳が遠くなり(ほとんど聞こえず)、目もよく見えない(老眼?)ようですが、動きは老犬と言うにはほど遠い活発なもので、病気ひとつせず、このところの夏痩せが若干心配ですが、我が家で飼った犬のなかでは最長記録を更新しています。
木工製作の環境が整いつつあります。昨日は電動糸鋸盤のトップにある糸鋸を装着する部分の、左腕補助を足で操作できる器具が90%完成と、ベルトサンダーを室内作業台の中に片手でいれられるようハシケがあらかた出来ました。完成したら写真を公開するつもりです。
最近は家の外で木工製作の環境整備作業が続いています。大層な言い方ですが小さな家の、そのまた小さな仕事部屋の中で、半身麻痺で絵を描く傍ら電動工具を使うのですから、どうしても工夫が生まれます。昨日は電動の糸鋸盤補助器具にモクネジで補強しただけで一日が終わり。ま、こんな日もあります。それでも左足装具を外して動くのですから汗ビッショリで上半身は汗疹だらけです。何も事情を知らない人が見たら、ハードな運動をしていると思うでしょうね。
リハビリ介護士の皆さんも今日からお盆休みに入りました。
私も墓参りに行く予定ですが、菩提寺と先祖の墓があるお寺は保土ヶ谷と野毛山にあり、今でも旧街道のままの、道幅が狭いうえ車が多い所なので難儀を覚悟しています。
で、実家があった保土ヶ谷の家を出て西蒲田のアパートに住み始めた画学生時代の、将来に不安を抱えながらアルバイト生活をしていた頃の作品がありました。
蒲田の独身時代の生活環境はテレビやラジオは無く、外からの情報はありませんでした。
それが良かったのかは分かりませんが、味気ない石膏デッサンに励むことはできました。
その頃一人暮らしで最初の倉庫会社のアルバイトで知り合った横山秀美君とは、同じ画学生仲間で同年と分かり、後に親友となりましたが、アパートに泊まりに来たある日、歯から血が出て止まらず眠れなかったと言って帰った直後、急性白血病で入院。19日目で逝ってしまいました。享年21才。
その後彼のご両親には私ら夫婦の仲人を頼み、終生のお付き合いさせてもらいました。
自立を始めたのが19才、最初に住んだのが左官屋の二階で、かど部屋の四畳半。作りは半畳の流しに一畳の押し入れ。、トイレ(昔の日本式厠)は共同で一ヶ月ナント5000円。
引っ越しは費用節約のため3回とも西蒲田。家財道具なんてものはなく画材と石膏、着るものは頓着しないので2〜3回ほど行き来するだけで引っ越し完了というシンプルなものでした。
「漫画家残酷物語」「フーテン」などの作者、永島慎二画伯描くところの「若者たち」のマンガそっくりの生活でした。
タバコを吸い始めたのが、一人暮らしを始めた20才。ハイライトが70円の時代でした。
今から40ン年前ですね。喫茶店でコーヒーが150円。アルバイトで生活費雑費などかつかつでしたが、食費を削って夢中になって読んだのが、司馬遼太郎の「竜馬がいく」(初版)でした。
昔の話から急に現在へ、
昨日母親を車に同乗させて館林から保土ヶ谷へ出かけることになり、思い切って左足の装具は外し、一応装具は持って行くことにして、素足でビーチサンダルで出かけました。
途中東北自動車動の蓮田サービスエリアが混雑と出ていたので、羽生でトイレへ、家で装具無しとは大違い。サービスエリアの車いすマークの駐車場から目の前のトイレへ行くのに、家での歩行速度(?)の半分、まるでカタツムリの移動のよう。その上衆人環視のなか緊張で左足が地面に付くと一歩ずつ痙攣をするというていたらく。こういった経験は早く体に覚え込ませなければ前に進めず、幸い転倒も捻挫もありませんでした。
(昨日のつづき)用事を済ませての帰り、
東北自動車道の蓮田サービスエリアでもう一度、両足にサンダルを履いてトイレへ。混雑したなかで杖をついて人に見られるのも少し慣れたようで、行きは痙攣は起こらなかったのですが、車に戻る時には左足に痙攣の症状がでてしまいました。
この症状が出ると一歩も前に進めず、立ち止まって症状が治まるのを待つしかありません。
緊張もある程度のラインを越すと出てしまうのか、疲れも加わってのことか分かりませんが、もっと経験を積んだ上で判断したほうがいいようです。
このところ小用が重なって外出が多くなり、仕事部屋の木工作業台が完成間近にしてストップしています。また、手近に置いたはずの仕事以外に日常使っている眼鏡や、ドリルチャックが消えて見つからず前に進めません。 今日はこの問題に一日じっくり取り組んで、仕事部屋の整理整頓から始めるとします。
先月末に左足の装具を外してから21日目。
左足膝の筋力は装具を付けていた時と違い、徐々に復活してきているように感じます。昨日は探し物が見つからず、気分転換に外食に出かけ、夏休みで家族連れの客の好奇な目に晒してきましたが、左足は硬直も痙攣も起こらず大分慣れてきたようです。
装具を付けたと脳に伝わるとそれだけで安心(?)して、筋肉の戻りは無くならないまでも遅くなるのかも分かりません。
ブラックユーモア、ナンセンス、若かりし当時の未発表の練習作品を見るとユーモアの中に毒を無理に入れようともがいていたように思えます。
一つのテーマで10〜12点ひねり出したのですが、この習作は9点で一枚足りません。残りの一枚は二十代初め頃の、書店のアルバイトで知り合った画家や詩人の卵のアルバイト仲間の一人に上げました。誰にいったのかは忘れましたが、不思議と渡した絵の内容は覚えています。
猛暑記録の一位の座を維持している館林に住む母親が、扇風機がもう一台欲しいというので昨日昼前に目的地に出かけました。
出かける前に家内が車の中を点検すると眼鏡の入った黒いケースは助手席の下で見つかりやれ一安心。
今度こそ無くさないよう眼鏡は胸のポケットに差し込み途中騎西の農協でトイレ休憩。
再出発するときいつもの癖で車の屋根へ杖と眼鏡の入ったケースを乗せ、キーを胸のポケットから取り出し、ドアを開け杖を運転席の横に入れるまでの記憶はあるんですが、館林近くで胸のポケットにあるはずの眼鏡がありません。(左手は麻痺で使えず、右手だけでするため)
初代杖はこのうっかりで無くし、今度は眼鏡です。粗忽も極まれり、電気店の駐車場で思わず手にした杖で自分の頭を叩いてしまいました。帰りに騎西の農協に寄ったのですが、無いとのこと。嗚呼。
ゴルフをやられている方々にはもうお分かりかとおもいますが、私、スポーツと名の付くものは一切苦手でやりません。それでゴルフマンガを描いているんですから太い神経なんでしょうね。
敬老の日もリハビリはあり、訓練士の皆さんは祭日も休み無く仕事でした。
昨日は一人暮らしの親のご機嫌伺いで隣の県へ出かけ、帰宅後夏の疲れが我が家の電気製品にまで及んで、洗濯機、浄水器等を見に行ったので「心の発達」は準備不足で間に合いませんでした。
で、日にち遅れの「ドン」に登場してもらいました。私の方の疲れは相当たまっています。
自作した杖のうち、比較的頑丈な方の一本を先日のリハビリで使ってみました。
仲良くさせてもらっている80才の女性は「みんなが持っている同じような杖じゃないので、変化があって楽しいじゃないの」という好意的なのもあり「仙人の杖」って評もありました。
まだ若干の改良が必要と思っているんですが、私の命名は(根性曲がりの杖)。近いうちにこの場で公表するつもりです。
今日は三連休の最終日。いつから体育の日が第二月曜になったんでしょうか。「祭日でもリハビリはあります」と、前回の訓練の休憩時に念を押されてしまいました。が、・・・忘れた振りをする手があります。
最近は車を走らせている時、中央分離帯の雑草からの、鈴虫の音の大合唱に気づかされます。排気ガスまみれでも大丈夫なんでしょうか。虫のなかにもガソリンの臭いが好きな奴もいるんでしょうかね。
虫といえば、介護士のママさんたち女性陣が、滑稽なほど(虫)に恐怖を感じているのを目撃します。幼稚園ではダンゴ虫やミミズで遊んだというご当人がですよ。
で、リハビリの柔軟体操の時に、ママさん介護士の座っている椅子の下を凝視していると、虫が現れたと勘違いして、徐々に落ち着きが無くなってオタオタしだします。最近はこうやって砂を噛むような毎日を、イジワル爺さんになって遊んでいるんですね。
この手は一回しか使えませんでしたが。
秋も深まってくる度に、自分の意志に関係なく左足底全体が右足側に向いてきます。
脳の血管は切れた箇所でも、現れる症状が微妙に違い、私の場合、最近は特に麻痺のこの症状が強くなってきていたので、昨日の夕方で今までの強情を二ヶ月半でギブアップ。
カミさんを助手席に乗せて首都高を通り、月一回の霞ヶ関の東京落語会の会場へ着くと、車に用意しておいた左足用装具を装着。
会場の混雑した中で、頑固に不自由な歩きを披露し続けるのも人様に迷惑と戸惑いをかけてしまいます。
今回は開口一番から聴けて、新真打ちの柳亭芝楽「ふぐ鍋」、歌武蔵「鹿政談」に続いて、たしか志ん朝さんの弟子だったと思いますが、前々から聴きたかった桂ひな太郎の高座は「居酒屋」、先代金馬の影が見事に消えていました。夢之助「寿限たら」の後、仲入りで帰宅。家の中で蠢いている毎日から解放された一日でした。
自作の杖に続いて、長年の目標だった3Dオートマタに着手。
まずは両手が使えていた頃にどれだけ細工ものの作品に近づけるか、最初の試作品は蒸気機関車を黒檀、紫檀、ブナなど数種類の硬めの木を混ぜて作ることにしました。
手遊び作品はデフォルメで決まるので、まずは図面ひきから始め、経過を来月から順次ブログで紹介することにします。
屋外で作業台に乗せたロールサンダーをかける時やヤスリがけの時に、濡れ縁に腰掛けての作業では対象物の目線がやや上になってしまい、立ったり座ったりが不自由でした。
で、昨日は以前解体して取っておいた二段ベッドの飾りや、端材を使って作業用の腰掛けを作ってみました。
濡れ縁に乗せて座る台なので高さはそれほど必要でなく、天地15㎝と約20㎝の小さな台二つが一日で仕上がりました。
写真を撮るまでは時間が無くこれも後日に紹介します。
社会保険研究所制作の『年金生活読本』。1980〜90年頃の絵です。
すでに二幕目の人生になり、これを描いていた当時は、老後の生活など考えも、計画すらしていませなんだ。
現在の生活は?
考えようによっては、面白くはありませんが、楽しんでいる部類の生活になっているようです。
このところ雑用の多い日が続き、SL・TOYの制作がストップしていました。
今日は屋外の作業向きの天気のようです。ちょっと寒いですが快晴なので、何があっても見ざる聞かざるで通し、作業に没頭することにします。
1976年(昭和51年)6月26日、モハメッド・アリとアントニオアントニオ猪木の異種格闘技戦がテレビで放映され、ボクシングVSプロレスという珍しい試合に、最初はワクワクしながら見た記憶があります。
最終的には、アリ側から要求されたルールにがんじがらめにされた、やりにくそうな猪木の戦いぶりだけが印象に残り、ストレスが増幅する試合だった。
この習作はその後一気にアイデアが出て2〜3日に描き上げたと記憶しています。
勢いで描いたボクシングカーツーンは計13点。
工業系デザイン会社を退職した後、血眼になって(ちょっと大袈裟)出版社巡りをした時に持ち歩いた作品のひとつで、日の目はみませんでしたが、私の原点のひとつ。
原画は当時吸っていた煙草のヤニなどで黄ばんで紙魚だらけだったので、コピー機で汚れを取るひと手間がありました。
2013年が明けました。
今年も『無為自然』。自然体で無理をせず、しぶとく野太く歩んで行きます。
作品は1978年に描いた、習作としては4作目です。
長女が生まれ、長かったアルバイト生活に見切りをつけて、工業系デザイン会社に入社した頃に描き上げたものです。
当時は会社に黙って二足のわらじを履いていて、月刊小説宝石誌に私の一枚漫画の連載作品を見た大手広告代理店から電話があり、習作のこの表紙の絵に色を付けて(カテゴリー5のカーツーン〔41〕2009年11月9日と、〔91〕2012年2月5日にあります)持って行ってから、長かったトンネルが抜け、道が開けて今の生活がある、私の原点といえます。
何てことのないマンガと思われましょうが、私には思い入れ強い作品です。
当時も今も大して変わりませんが、何か訳の分からない恐怖に追い立てられている日常の自分を置き換えたものです。
これはリクルート社発行の「技術者が読むキャリア情報誌『Beruf(ベルーフ)』1985No.13、6月27日号に4Cで掲載させて頂きました。
ノンタイトルが希望でしたが、(いいアイデア見つけた?)と、訳の分からないタイトルにしてしまいました。
ホームページのカテゴリー5の、2008年12月14日に、この絵がカラー作品であります。
1985年5月2日号の、リクルート社発行「技術者が読むキャリア情報誌Beruf(ベルーフ)」No.9に「日本式オリジナリティ」のタイトルで掲載。
ホームページ・カテゴリー5の2008年11月3日にこのカラー作品があります。
これもカラーで復活した作品になりました。
1986年3月20日号のBeruf(ベルーフ)誌No.6に「下山のない登頂」のタイトルで、またホームページの2009年8月9日に「一寸先は・・・」で、そのカラー作品があります。
1983年9月1日号・日本カルミック広報誌UNI-ZONEのNo.3、酩酊劇場「TOP AIR」のタイトルになり、カラー作品で甦りました。
ホームページ2009年1月4日にこの作品があります。
電動糸ノコ盤の糸ノコ交換機が壊れ、自作の杖のカリンの握りが壊れ、ボール盤の細工物を固定する自作の器具を、細工物のサイズに作り加えたり、相変わらず雑用に追われて、木工制作の環境の不備も続々と出てきました。
一日がアッと言う間に過ぎていきます。
何時になったらSL・TOYが出来る事やら・・・・・。(タメイキ)
冬の屋外での作業に必需なので、防寒用に軍手を数年ぶりにはめてみました。
左手は相変わらずジャンケンでいうグー状態なので、10分以上軍手と格闘の末なんとかクリア。努めて動かさないと手の中でカビが生えてしまう人も居るとのこと。
今日で諸々の修復作業は終わり、SL・TOY作りに見切り発車します。
困ったもんだ!
このところ晴天が続きます。なので屋外作業が続き、左手の冷えがきついので防寒のため手袋をするようになります。
昨日は左手に軍手に装着する時間を正確に計ってみました。人差し指、中指と続き、薬指がなかなか思うようにいきません。
集中している最中、中っ腹のところにカミさんが(雑用をせよとの独り言)でかんしゃくを起こしてしまったため中断、結局18分かかってしまいました。反省。
ま、のんびりしぶとく訓練を続けていけばそのうち元に戻るでしょうね。
冬晴れ続きだった昨日、成人の日に一転して大雪となってしまいました。
で、リハビリ訓練の日でもあったのですが、送迎車が来る一時間程前に訓練中止の電話が入り、屋内で木工作業していた私はそのまま続行、私には喜ばしい雪でしたが、またしても交通マヒ。麻痺は勘弁してもらいたいものです。
コマ割りの習作はとりあえず以上で終了しました。
バッターでいうと、12打席5安打で4割以上塁に出た事になります。が、トータル試合数4回で見た場合、1割強の打率となり、二軍行きどころか・・・。
将来筆一本で生活出来るか分からない頃、不安を抱えてアルバイト生活の合間にこんなものを描いて不安を払拭していたんですね。ノーテンキモイイトコ、デシタ。
先日漫画サンデーの廃刊のニュースがありました。青春時代に愛読していた週刊誌で、馬場のぼるさんの「こんにゃく物語」、横山隆一さんの「百馬鹿」などは確実に私の血肉になっていたと思います。
昨日は映画監督の大島渚さんが、脳出血闘病17年目で彼岸に向かったとのこと。私の青春時代に白土三平の貸本時代の傑作「忍者武芸帖」が大島監督の手で映画になり、蒲田の三番館で見て、ガッカリした覚えがあります。天才もずっこけることがあるんですね。凡人として安心したり得心したりデシタ。合掌。
雑誌や出版物を見た読者からの反応が、薄れてきたことが肌で感じられていた頃、この新聞漫画を載せてもらった後に、意味が分からないという反応が編集部に数件寄せられたそうです。
この時はこういった反応があっただけでも、心底嬉しかったですね。
で、見ての通り、子供は元気に外で遊べ!を描きたかったんですが、願望が強すぎたのか、筆が滑ったようです。
昔々の昭和50年代も終わり頃の作品で、時代を感じますね。
先日の仕事部屋の大改造で、強風や雪の日でも、夢中になって屋外作業をしたツケがきてしまいました。
そと見でも分かってしまうほど歩きがギクシャクして歩きづらいのなんの。
症状としては、左足全体を巨大な手で握られているような、不愉快な感触で、看護指導員の先生達があれほど口を酸っぱくして、「体を冷やさないように」という忠告が、今頃になって身にしみてきました。
今や絶滅危惧器種(?)となった家庭電話機ですが、我が家ではいまだに重宝しています。
新作落語に、新作!ですよ。落語というのは時間が止まっている世界なんですね。
「やまのあなたのぉ・・・」と、爆笑浪曲を盛り込んで半世紀以上前に『授業中』という噺で一世を風靡した落語家、三代目円歌さんの師匠の、二代目三遊亭円歌さんの代表作で『呼び出し電話』という噺がありました。
電話を持っていないご近所の女性が、主人公の家の電話に恋人から呼び出されて、電話口で痴話喧嘩をするやり取りがおかしくて、主人公夫婦が呆れ返るのんびりした時代の他愛の無い、妙にぬくもりのある噺がありました。
この漫画を描いていた時、私の周辺でも携帯電話を個人で持つことなど、夢のまた夢の頃でした
私に限らず、リハビリ仲間も歩いている時以外では身体障害者と健常者の区別がつきません。
最近は、ようやく車いすマークの駐車場に、抵抗無く止まる事が出来るようになりました。
が、家内の買い物に付合って、車いすマークの駐車場に止まって、車の中に一人で休んでいる時に、お年寄りが爆発寸前の感情を剥き出しで、「ここはあんたが止まるところでは無い!」と、二度程抗議を受けたことがあります。
確かに健常者とおぼしき輩が、このマークの駐車位置に止まる所を数度目撃しています。
また、このような場合に、自分が障害者であることを証明するのも、抵抗があります。
不意に感情をぶつけられて、やんわり受け止められる程人間が出来て居ないので、ムッとして杖を相手の鼻先に持って行くことになり、その後の自己嫌悪ったらありません。
このところ自分の時間が使えない異常事態が続いていました。
ここ数ヶ月は、細々した雑用にも振り回されていた感があります。
その雑用(足腰が悪く、身動き不自由な一番下の姉の注文で、温泉情報を調べて郵送する等)も、ようやく木工制作の環境整備をSL・TOY作りと並行して進める見通しが付いてきたように思えます。かな?
つい先日、ロシアに隕石が落ちた映像がニュースで流れました。
2月19日だったので、もう一ヶ月以上前なんですね。
光陰矢の如し、いつの間にか桜が満開で、年を重ねてくると時間の流れが徐々に早く感じます。
木工作業ですが、未だに段取りが悪く、前に進んでいません。
困ったもんだ。
中高年サラリーマンのお父さん達の、帰宅拒否が増えているそうです。
仕事を終えて、馴染みの居酒屋で一日の疲れを癒し,カプセルホテルに直行して就寝という映像を見ました。
家庭の中にお父さんの安らげる居場所が無い現実を見るのは辛いですね。
先日、笑っていいともという番組の中で、辞書編集者がジャッジする「結婚」を端的な言葉で表現するコーナがあり、タモリさんが「愛から憎悪に替わり、やがて感謝で終わるもの」(うろ覚えですが)と答えて優勝しました。
上の絵を笑い飛ばせる日が早く来ると良いですね。
一枚マンガの注文を、生まれて初めて受け、【貧乏神が舞い込む生活の】出発点となったのが月刊「小説宝石」誌だった。
毎月1ページ掲載で、毎回数点を提出し、掲載してもらえなかった分も一緒に茶封筒に入れ、プラスチックケースに放り込んで物置に仕舞っていた。
40年も経つと紙の変色もあるが、コメント等版下をのり付けした部分からか、カビが増殖している。
悪いことに他の絵にもカビが影響していて、その種のカビを取る技術が無い。
このホームページに載せる絵は、スキャナで消せるが、そのままでも面白い効果を生んでいると思ったので、面倒な手間を省たまま、これから暫く紹介していきます。
昨日の昼過ぎに、木工作業中、突然バンドソーのモーターが止まってしまった。
今のところ、木工作業中で一番の頻度で使っていて、むしろ酷使したきらいもあった。
私には、細かい微妙な作業でも、糸ノコ盤より使い勝手が良いので、この故障はダメージが大きい。
すぐに買ったところへ電話して、点検修理を頼んだが、この愛機は、母親の雑用の合間に見初めた工具なので、わざわざ館林まで持って行かなければならない。
今日25日の天気予報では快晴とのこと、こんな日は屋外でベルトサンダーが使える最良の日だったので、作品作りの、この遅れは残念でならない。
木工用バンドソーを車に積んで早速購入先へ持って行った。
購入したのは去年の夏、と、保証書の購入日を見て修理を頼だ後、無料で出来ると安心したのは束の間、先方で確認し直すと、実際は一昨年だった。
保証期限の一年は過ぎていたので、多分モーター交換は避けられないと考えると、実費は覚悟しなければならない。
モーター交換くらい自力で出来ればいいのだが。
ユーチューブで見ると、この種の作業人口の多いアメリカの木工家なら、簡単にやってのけただろうと思うと、人頼みしなければ何も出きない自分の不甲斐なさ、に思いやられる。
最近は。頻繁に発生する雑用に振り回されて、疲れが溜まってきていることに加えて、この寒さで、足裏の痛みや痙攣が起こる事を、ほぼ一ヶ月毎の定期検診で医師に伝えた。
自分で痙攣と思っていた症状は、脳出血患者に、大なり小なり起きる症状の「足クローヌス」ということが分かった。
私の場合、この症状が顕著に表れていたようだ。
この問題回避には、歩行や運動以外は、装具を外していれば、現れないとのこと。
リハビリ訓練中に、このところ頻繁にこの症状が起きていたので、昨日は代表指導員に伝えたが、日頃冗談や、訓練を怠ける言い訳の多い私に、信用が無くなったこともあり、装具を外す度に報告しなければいけなくなった。
毎年正月に、与野にあるドイトで恒例の道具市があり、病後数年ぶりに行って丸ノコを格安?で手に入れた。
電動工具の恐ろしさは、油断すると一瞬で体の一部が無くなってしまうのは分かっているし、また近所に経験者が一人居たので、いくら欲しくとも迂闊に手が出なかった。
が、手に入れてしまった以上、手動で使うとコントロール出来ない危険も起きるので、ベルトソーの修理期間内に、丸ノコを机の下に固定する形の作業台を作ることにした。
車を運転中に、突然意識が薄れ、路肩を歩いている中年の女性に、危うく追突寸前で止まった(ようだという)。
外見では何でデイサービスで、リハビリ訓練をする必要があるのか、ここ一年分からなかった知的な風貌の、70代半ばの教授風の男性が話してくれた。後に聞いた話では、引かれそうになった中年女性が、救急車を呼んでくれたようで、その後は病院を3カ所たらい回しにされ、受け皿の病院では、脳外科の医者が居ず、神経内科医常駐の病院なので、開頭手術が出来ない。
で、脳の血管内に詰まった瘤を薬で溶かして強運にも無事生還を、家族から聞いて、一週間意識が戻らなかったことを知ったという。
リハビリ訓練の休憩時間で、足の不自由な親父仲間の免許談義から、この教授が70代半ばで車免許返納と、家族全員で運転を猛反対された理由を聞いたのが、会話の始まり。
が、脳梗塞の後遺症は残り、まだ半身のしびれがまだあるので訓練を続けているとのこと。
人身事故が無く、車も無事、ご当人は一寸不自由!でも、強運!ですね。
アナログ・レコードの復権で、最近はブームが起きかかっていると、ラジオやテレビのニュースで知った。
気分転換や疲れたときなど、行きつけのリサイクルショップに立ち寄って、レコードを漁ることを密かに楽しんでいたが、ここ数年、この種のライバルが増えてきていたのを実感していた。
で、よもやと思っていたが、このブームが本格化すると、リサイクル店のレコードも値段の高騰が予想され、私の楽しみの一つが消えることを覚悟しなければならなくなった。
病で倒れる少し前、たまたま目に入ったカラヤンの10枚組レコードのボックスに100円!の名札を見てから始まった。
その後、クラシックからイージーリスニング、タンゴ、シャンソン、カンツォーネ、ジャズ、オールディーズ、落語など続々と購入、実家にまで預ける程になってしまった。
しかし、カミさんの呆れ返った顔も、そろそろ見納めになるかと思うと、残念だが、この辺が潮時なのかも知れない。
月刊小説宝石誌の一枚マンガ作家として、毎月1ページ掲載以外に、複数枚を提出した残りのボツ原稿も、スクイラップスケッチに含んで、今日から紹介していきます。
約40年前の脳天気作品です。
今朝は、行動の自由という言葉からはほど遠いが、体が凍って固まった状態から、徐々に溶けていく感覚が感じられる日和になってきていると感じられた。
動けないからと、腹を立てたり無理をすると元の木阿弥で、筋肉が凍ってしまって、可動域の自由が奪われ、さらに不自由な生活に後戻りしてしまう。
昨日の夕方は、気温の変化は変わらなかったが、風呂に入る前、階段の上り下りの運動を始めてみた。
これも、脳からではなく、体の方からそろそろ始めた方が良いのではという、曰く言い難い感覚が感じられたためだった。
今は【頑張らない】が、一番いい状態で生活を送れるようです。
この絵は、フリーランスになった頃に、絵本にするつもりで描いた物語の一場面に、色を付けたものでした。
現在、じぶんの置かれた環境を象徴しているようで、36年も前に予見していたような絵になっています。
あのとき、ハーレムで美女たちに囲まれた絵に替えていれば、今の環境も変わっていたのかも・・・、と思うにつけて今更ながら悔やまれます。
このホームページの2011年12月21日から2013年3月26日まで、ランダムで発表した(柴犬【ドン】とその一家)が、先日の断捨離の途中で未発表の原画が見つかりました。
ということで、【ドン】の再登場となります。
互助会の冠婚葬祭タイムスで掲載。
1983年5月から約2年ほどでしたが、私の初めての新聞連載マンガとなりました。
我が家で初めて飼った柴犬の幼犬がモデルですが、残念ながら僅か半年で急逝。
当時流行っていたペットのポックリ病が原因でした。
で、諦めきれずマンガで活躍してもらいました。
ペットは飼い主に似るようで、改めて見直すと、モデルとなった【ドン】と私は同じ性格のようです。
生来のインドア派なので、新型コロナでの自粛生活はさほど苦にならない。
梅雨に入っても埼玉県南東部に住んでいるので、いつもの梅雨とさして変わらず、西日本豪雨の災害に見舞われた人には挫けず立ち向かって欲しいと願っている。
病になって10余年が経ちました。
62歳までは病とは無縁の生活だったが、以降は数度の病に見舞われ死線を漂った時もあったが、不思議としぶとく生かされていると思う。
今では週二回のリハビリ訓練所通いで、私が一番の古株になってしまったようです。
その間親しくさせてもらった諸先輩方が、ひっそりと去り、長生きも辛く寂しいものだと実感した。
最近はリハビリ送迎車に乗り降りの時は何故か私だけ急の雨に振られたりして、訓練所ではすっかり雨オトコにされてしまった。
梅雨の晴れ間に木工用テーブルソーを屋外に出して、作りかけの木工作業に精を出せばいいのだが、次に作るカラクリの設計に集中している時だったり、気圧による体調の変化にもついて行けずで、うまく咬み合わない日が続いている。
土用の丑の日も間近で蒸し暑い日が続いていますね。
梅雨明けを早く願い、暑中御見舞い申し上げます。
コロナで今までの生活が変わってくるという。
私は昔人間なので、現金で支払うことに拘っています。
スマホで決済なぞ裸で町中を歩いているように感じてマッピラである。
我のパソコンに詳しい友人は、以前現金を知らずに引き出されていた事に気づいて、調べてみたら海外からアカの他人に引き出されていたと聴いたことがある。
インターネットの法整備もろくに出来ていない現在だから、いまだにガラケーだし、近いうち使えなくなると周りから脅されているが、なに、使えなくなったらそんな時は無い知恵を絞って対処すればいいわい。
上の絵は1983年に、カルミックという会社の小冊子で、UNI-ZONE誌第3号に掲載。酩酊劇場 TOP AIRのタイトルが付けられた。
この当時は色鉛筆で仕事をしていたんですね。
早朝、近所でカタカタと今まで聴いたことがない音がしていた。
カミさんに聞くと、ご近所の子供がスケボーで遊んでいるという。
まさかオリンピック競技のひとつにスケボーやサーフィンが組み込まれるとは、時代の流れとはいえ想像も出来ないことだった。
それもスケボーで日本の若い男女が今回の五輪で金メダルを捕るとは思いもよらなかった。
以前、秋葉原駅前の広場(があった頃)で、スケボーで遊んでいる若者たちを見かけたことがあったが、ワルガキの印象が今でも頭に焼き付いている。
五輪でスケボーのイメージが覆された印象がある・・・と思うのは早計か。
ということで、昔々描いたこの漫画のスケボーデビューは2008年、ホームページでは2010年10月29日に『お勉強の邪魔』のタイトルで更新している。
毎日曜日の朝8時のNHK第二「趣味の園芸」で、村雨辰剛という名のスウェーデン人の庭師がいる。
これがまた、実に流暢な日本語でナビゲーターを務めている。
ニッポンの徒弟制度に憧れて来日後に日本国籍を取得したそうです。
子供の頃、指物師だった父親が、物差しを振り上げて出来の悪い弟子を追い駆け回した話を母から聞いています。
当然長く居着いた弟子は皆無だったそうで、良い師匠の下なら優秀な弟子も育ちやすいが、師匠選びも運次第ですね。
オリンピックの出だしは、日本の金メダルラッシュだったようで、ここへ来て失速の感がある。
五輪はなど見ない!と、へそ曲がりの自分が決めていても、サーフィンやスケボーなど気になる種目は見ていた。(実にいい加減)
なでしこジャッパンの結果は残念ですが次回は頂点に立って欲しい!と無責任で粗忽でいい加減な頑固者の一人は思っている。
最初は2004年7月に発表。このホームページでは2009年11月27日にラッキー[175]「高所恐怖症」の題で更新しています。
あけましておめでとうございます。
新春2日はAM8時から第98回箱根駅伝が始まります。
今年もどのようなドラマが生まれるか、
運動が苦手で運動神経皆無の私でもこれだけは楽しみです。
今年も日本海側は大雪に見舞われている。
今朝今年二回目の雪が関東南部で振りだして来た。
太平洋側は明日あたりまで大雪の予報になっている。
冬景色を楽しめるのは頭の中だけ。
こんな日はうっかり外にでようものなら、体中の関節にロックが掛かって一足毎に大変な努力と注意が要る。
安全策は、家猫と年寄りはこたつで丸く穏やかな生活。
世界的に異常気象で、先日は北海道や西日本は大雨、関東でも梅雨が記録的に短く猛暑続きです。
メディアは電力不足を騒ぎたて、クーラーも制限せよという。
諸物価高騰、生活全般四面楚歌。でも、
Don't Worry,Be Happy
絵は「技術者が読むキャリア情報誌【Beruf】 1985No7B1WEEkLY 4月4日号に掲載。
ラッキーはストックがないので、月初めの絵は、この雑誌の絵を続けることにします。
猛暑で気力体力が削がれている。
木工作業でテーブルソーを作らないと先へ進めないが、今は6〜7割で完成が止まっている。
私にはクーラーは体に大敵なので、窓全開で外国の漫画家の作品を見て時間を潰している。
上の絵は【ニューヨーカー】の1969年8月8日号に載っていた半世紀以上前の作品です。
作者はソール・スタインバーグだが、タイトルは付いていない。
一枚漫画を志していた団塊世代は一度でも夢中になっていた作家でもある。
植草甚一さんの「ぼくの好きな外国の漫画家たち」に紹介文があった。
本名はサユル・スタインベルク。1914年ルーマニア生まれ。高校卒業後イタリア・ミラノ大学で建築学を学び、1941年 アメリカに定住してソール・スタインバーグと米風の読み方になる。
この人の画集も一冊もっていて、【THE LABYRINTH】の表紙カバー裏の肖像写真に、茶封筒に目鼻を描いて頭から被っている写真が 何より気にいっている。
一枚漫画の巨人は他にロナルド・サールやサンペなど画風に強い影響を受ける場合が多いが、この人は私らひと世代前の漫画家に多く影響が見られた。
熱中症は人間だけではないようである。
スマホを長時間会話や地図を使い続けると熱を帯び、最悪発火するというニュースがあった。
対処法は10円玉をスマホの背面にビッシリ敷き詰めるといいそうだ。(胴が熱を吸収する効果がある)
他に扇風機、いけないのは冷水に付けたり冷蔵庫に入れると、スマホ内部が結露を起こして破損の憂き目に合うという。
スマホを持ち歩いている者が10円玉をジャラジャラ持ち歩いている図を想像すると笑いがこみ上げてくる。
一昨日までの殺人的な猛暑で高齢者は、あっしもぼち墓地どころではなく、あっという間に彼岸行きで、母も危ういところを入院で回避できた。身近の経験では数年前近所の旦那が畑で、熱中症が原因で倒れ発見時は水分も受け付けず即彼岸に向かったと聞く。
くわばらくわばら。
絵は半世紀前の【PLAYBOY】1973年6月掲載の一枚漫画。
ロナルド・サール(1920ー2011)、英国ケンブリッチ生まれ。
ソール・スタインバーグと並ぶ20世紀最大の風刺漫画家でグラフィックデザイナーの一人でもある。
この人の名前がタイトルの漫画集に、戦争中シンガポールで日本軍の捕虜となった時、日本兵の残虐行為をスケッチしたのが数ページに渡って載っていた。
この時の経験があってか、処女出版された漫画「聖三角女学院の鐘」で、女学生たちの凶暴な悪ふざけ(どころでなく残虐遊戯)が発禁になるほど、ブラックユーモアに昇華されている。
私も20代の頃、この人の画風に魅了されたが、気質の違いと経験と力量不足諸々を悟って離れていったひとりだった。
絵はRonald Searle&Heinz Huberの【Haven't We Met Before Somewhere?】から抜粋した2点。
今は昔。
水と空気とをテーマに無い知恵を絞って描いた作品です。
掲載は1982年発行のカルミックの冊子【UNI-ZONE】№1号。
こんな絵で生活が出来ていたんですね。
おおおらかでのんびりした時代が残っていました。
カルミックの冊子【UNI-ZONE】第二号水と空気と、1982年発行。
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