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13)リハビリ闘病記 アーカイブ

2011年03月28日

発症(1) 2010年3月29日午後3時半(頃)

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発病前は毎日判で押したように5時に起床、ファクシミリとメールの点検後、即仕事にかかりエンジンが暖まったころにトイレ。その後朝食。午前中は机から離れることはありませんでした。

これが毎日ですから、また、これといった体の変化などなく、当然健康診断などせず、今まで病気で入院などなかったので、健康を過信していたことがいけなかったんでしょう。

当日はカミさんが外出中で、昼食後に請求書を郵便局に投函、仕事疲れがあったので、仕事部屋でちょっと横になろうと薄いマットレスをひいていた時、突然後頭部でボーンと音がしたように思い、前のめりにマットレスに鼻をつっこんでいました。

起き上がろうとすると、もう左手の自由がきかなくなり始め、座ることもできずでしたね。

カミさんが帰宅するまで15分から30分くらいこんな状態でいたと思います。

上の絵は救急病院からリハビリセンターへ移ってからのもの。 入院中のことは思い出したくないことが多く、記憶も薄れてきていますが、正直に記録していくことにします。

2011年04月13日

発症(2) 2010年3月29日午後3時半(頃)

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カミさんは帰宅後、私の仕事場へ声をかけてから、愛犬の世話や雑用をしていたようです。私の方は事の重大さも分からず、七転八倒の繰り返しでした。そのうちトイレに行きたくなってきたのですが、左半身は完全にマヒ。起き上がることも、勿論座るなんてことは出来ません。また悪いことに、当時カミさんは、ノックしないで突然ドアを開けて物を言う癖があり、当日は無意識に仕事部屋に鍵をかけていたんでしょうね。カミさんが私の異変に気が付いたのはあたりが薄暗くなったころで、倒れてからかれこれ4時間ぐらい経っていたと思います。

発症(3)救急病院の1

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倒れてから3時間以内に病院に行けば、助かった場合は大旨症状は軽く済むんだと、同じ病気のリハビリ仲間から聞きます。

私の方はただ大丈夫だ、何でもないの繰り返しで、救急車を呼ぶというカミさんに、失禁しているからだめとバカなことを言ったりして、脳出血は分かっても自覚はしていなかったんですね。 で、カミさんは窓をこじあけて外から仕事部屋に入ってきて救急病院へ電話。

救急車はすぐに来てくれましたが、ドアからは170㎝77㎏の私では担架で出られず、窓から出ての搬送となりました。

発症(4)救急病院の2

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生まれて初めて救急車に乗った感想は、乗り心地の悪さ。出血している脳に影響があるんでないかと心配するほどで、救急隊員が名前、年齢、今日は何日か、何時頃何処で倒れたか等々、同乗しているカミさんは私が意外としっかり答えていたので少し安心をしたそうです。

この時の事は救急車の振動以外は記憶になく、救急病院に着くまでなぜか動く方の手指をさかんに動かしていたそうです。

2011年04月21日

入院(1) 片麻痺と車椅子

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救急病院での記憶は、今は殆ど残っていません。が、CTやMRIはすぐに撮られ、点滴も1日やそこらで外されたようです。(アバウトだなぁ)

この日から病棟の天井を眺めるだけの味気ない生活が始まり、少し動くと左腕や左足に触れ、他人の体を触っているような奇妙な、気味の悪い感触が右側に伝わり、この感覚が消えて早く元に戻るよう念じる毎日でした。

入院生活に慣れてきたころ(またアバウトだぁ、それまでに、リハビリパンツという名のおむつをさせられ、大恥の日々があるんですが、それは後に書きます)に、食事など病室から食堂、トイレ、風呂、訓練室までの移動は勿論車椅子。この後4ヶ月は車椅子生活でした。勿論(なにが勿論だか)転倒防止のため看護師監視の下、ベッドから車椅子へ移るんですが、この転倒で腰の骨を折ったりで、入院生活が無駄に長引いたり、リハビリ訓練が遅れるのを防止するためでしょうが異常といえるほどの監視でした。

入院当初、私もいちいち看護師を呼ぶのが面倒で、無断で車椅子に乗り移る途中、若い看護師に見つかって、こんこんと(ものすごい勢いで)説教され、頭を垂れるばかりでした。いや、思い返すとありがたいことなんですが。

その後転院したリハビリ病院で、一年生看護師が車椅子に乗って半日体験したのを見ましたが、「皆さん、こんなきつい経験をされているんですね」と、腰をさすってしばらく車椅子から立てない看護師もいて、見物した我々患者同士変な優越感に浸ったのを覚えています。

入院(2)食堂のテレビ

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車椅子で移動が叶った間もない時、昼食で食堂に入った途端、巨人軍の木村拓也一塁コーチがクモ膜下出血で試合中に倒れ、救急搬送されたニュース(なにも倒れたところを映像で流すこたねぇだろッ)が4月2日。惜しくも5日後に逝去。別にファンでもないのですが、自分のこういう時期には堪えます。

続いて4月9日。作家で劇作家の井上ひさしさんが肺ガンで亡くなったと・・・。翌日は劇作家、演出家のつかこうへいさんも肺ガンで・・・。私と同じ団塊の世代ですぜ。

重複しますが、救急車で搬送途中に、人間のプライドを引きずっていると参ってしまうので、いつも落書きしている狸に変身して、まな板の上でされるがままでいようと、何故かこんな考えになったんですね。この防御法は退院して一年後になりますが、自分には正解だったようで、リハビリ訓練中でも自分を突き放して見ることが出来、陽気でいることができたんですね。で、つ狸の私でも、特に井上ひさしさんの訃報にはね、堪えました。

2011年04月24日

入院(3) 片麻痺の現実

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入院当初は何が何やら分からず、数日がアッという間に過ぎ、周りを見る余裕がでてくると、自分が汚物袋になって、9つある孔の管理が出来なくなっていることに気付かされます。これにはショックを受けましたね。

特に蛇口のパッキンとドレンの弁が壊れたのには参りました。また、下を向くと鼻汁は垂れるはヨダレも同じくで、脳からの指令を無視され、下半身は少し体をひねると汚物が外に出てしまう気味の悪さがひと月ほど続きました。これには病気とはいえ我慢がならなかったですね。意識がはっきりしているだけにねぇ。搬送されている時に人間のままだったら参っていたと思います。

入院(4) リハビリパンツの登場

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私の祖母は晩年、91歳の臨終間際まで、寝たままトイレをすることに抵抗して、病室の外にいて聞こえる看護師の説得に、病気だからしかたがないのにと思ったのを覚えています。私のもこれは家系からくるのかもしれません。足や手の感覚が戻らないんであれば仕方がないとして、これは退院までには何とかリハビリパンツだけは卒業しようと決意。退院時手足の感覚は30%から50%位まで戻り、ギリギリセーフでおむつからの縁切りが成功しました。

困ったことはもう一つ。これも入院中ですが、トイレには転倒防止のため看護師に監視 されるんですが、看護師によって目の前で監視されたり真横に居られるのには弱りました。後で分かったのですが、リハビリパンツの失禁チェックもあったんですね。

こういうことが前もって知識にあったら、人間ドックに率先して入って健康チェックしていたものを、なんですね。病気は本当に怖いですよ、皆さん。

2011年05月31日

入院(5)初体験の低血圧でした。

ntousyo.jpg 約一ヶ月もブログ更新を怠けてしまいました。

退院して約10ヶ月。リハビリ病院退院直後よりこの冬過ぎて、歩行は退化してしまいました。

現状はやや収まったものの、左足の裏の皮をはがされたような痛みが冬頃から徐々にきつくなり、それでも頑固に半歩ずつですが歩いています。酷いときは地面に左足を着けると、痛みで左足が跳ね上がってしまい、横断歩道の真ん中で冷や汗をかいたものでした。

最近その解決方法が自分なりに見つかりました(見つかったのかな?)。装具の底に柔らかい敷きクッション?を入れて体重をかけると、痛みが半減したのが分かりました。ようやく散歩が可能になってきましたね。

で、ブログ更新を怠けた言い訳?ですが、血圧降下剤で、上が100を切るほど落ち、仕事を終えるとグッタリして気力がでませんでした。救急病院で毎日天井を眺める日が続いていた当初、少しでもいい、半歩でも歩けるよう願ったものでした。勝手なモノで初心を忘れてしまっていたんですね。反省!デス。

2011年06月01日

入院(6)MRIの1

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大病についてはカミさんの方が先輩で、現在も車でよく病院へ連れて行くので、車中いろいろと講義を聴きます。で、MRIについても全く知識が無いという訳ではなかったのですが、実際経験してみるとこれほど騒がしいとは思いませんでしたね。

まるで耳のすぐ横で数人が煎餅缶やら鉄板を叩き廻っているようで、終えてからしばらく騒音が耳に付いて離れませんでした。・・・・・ったく腹の立つ装置です。

2011年06月02日

入院(7)MRIの2

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その腹の立つ装置で、自分の頭部断層写真を生まれて初めて見ました。(オッ、ちゃんと脳があるじゃない。というのが、不謹慎にも最初の感想でした。そんな了見だからこういう結果になったんですね)結果は正真正銘の脳出血。右脳の後部、知覚を司る部位に大中小三カ所の血管が破れていました。

脳は体の傷と違って自然治癒は無いとのこと。私の場合殆ど脳を使っていないので、新鮮なままの他の部位が補ってくれるでしょうね。とりあえず開藤手術は回避できました。MRIに感謝。ホッ。

ですが、その壊れた脳の場所から数年経ってどのような症状が現れるか 、まだこの頃は無自覚のままでした。いや、今もデス。

2011年06月03日

入院(8)院内を車椅子で散歩

sanpo.jpg ベッドに縛り付けられていた生活から、食事、トイレと車椅子で移動が可能になって少し気持ちの余裕が出た頃に、車椅子で病棟内の散歩を始めました。

ある日、外の風景を見に窓に近寄ってみると、左側のビルに見覚えが・・・・。

 倒れる前に義母やカミさんを車に乗せて何度か連れて行った病院だったんですね。ひとつの事が分かると、見慣れた日常だった日が蘇り、現状の自分とそれまでの日常の落差に、狸に化けたつもりの自分もさすがに愕然となりましたね。間抜けな話ですが、この日まで何処の何という病院に厄介になっていたのか理解していなかったんですね。

 

 

2011年06月14日

入院(9)赤面の入浴デビュー

ny.jpg 救急病院に入院してから二週間頃ですか、ここら辺はメモを書いていなかったのでうろ覚えですが、そろそろ入浴ということになりました。

病気の最中は風呂に入りたいという発想はないものですが、二日に一回は(毎日ではなかったと思います)二人の看護師が汗だくになって、ベッドにビニールシートを敷いて尻をぬるま湯で洗ってもらっていましたが、とうとう風呂に入りましょうという日がやってきました。

この丸太ん棒の体を、どうやって?と不振に思っていましたが、考える余地なく風呂場に連れて行かれ、穴の開いたビニールをハンモック状にした器具に座らされ、裸になり、エー、よく映像で捕獲されたイルカが水族館の水槽に入れられる時にクレーンでイルカをハンモックに吊して水槽に入れるでしょ、それと全く同じように電動の入浴器具で湯に入れてもらいました。

こちとら運動嫌いの、おまけにインドア商売でぶよぶよの中太りの体を、自分の娘より若い、おまけに結構かわいい娘さん二人に洗ってもらって、嬉しかったでしょなんてカミさんにも言われましたが、そうは思えませんでしたね。あちらは仕事で見慣れているでしょうが、こちらはコンプレックスの塊。おまけに裸になった途端、トイレに行きたいと言ったんですが「ここでやっていいですよ」・・・で、上の絵のようにシャワーをかけられ、いや勿論、湯に入る前ですが・・・タマリマセンでしたよ。

2011年06月19日

入院(10)リハビリ開始・・・1

reha1.jpg 入浴をさせてもらった頃、たぶんその後だったと思います。リハビリ訓練を始めますということで、看護師に車椅子を押してもらって4階から(だったかなぁ)トレーニング室がある一階へカミさん同伴で向かいました。

私の担当の理学療法士の先生は20代の美人の先生でした。

早速車椅子で膝くらいの高さのマットへ座る乗り移りという動作、車椅子から別の環境に移る練習から始まりました。

これが普通に出来ないんですね。

左手足の自由がきかないのでどうしても座ると右に極端に傾いてしまいます。おまけに私の性格はせっかちで、先生の開始の声を聞く前に乗り移りを初めてしまい、これだと転倒の危険大で、当初かなり先生を困らせたと思います。

この性格が災いしてこの時期にトイレで転倒をやらかしてしまいました。

病院内の車椅子マークのトイレの中は広く出来ており、勿論安全なように手すりが便器の左右どちらかに設置してあります。せっかちな私は車椅子から便器に勢いよく座った途端、便座に尻がバウンドをしてタイルの床に仰向けに転倒してしまいました。理学療法であとで訓練をしましたが、床に横になった場合を想定して起き上がる訓練をまだしていなかったので、この時の私は亀の仰向け状態。ドアの外にいたカミさんに呼んでもらった男の看護師に助けてもらって・・・恥ずかしかったなぁ。

 この背もたれも肘掛けもない所で座ると、バランスが崩れるし(どのくらいの傾きかは自分で分かりませんでしたが、後にガラスに映った自分の姿を見て愕然としたくらい大きく傾いていました)当然長時間は体がもたないんですね。これだと疲れるし、骨盤の変形もあるのでまず、まっすぐに座ることを練習。で、発病から寝たままの入院生活で衰えた体中の筋肉のストレッチが訳の分からないまま始まったんですね。

理学療法の美人の先生に、我がリハビリパンツから微かに臭う悪臭を二人で嗅ぎながらのストレッチ・・・・入浴とストレッチで、人間の体は汚物袋なんだなぁと実感した次第です。

約二週間の不自由な体で寝たままの生活。たった二週間でも筋肉は溶けていくように無くなるんですね。これは恐怖です。

2011年06月22日

入院(10)リハビリ開始・・・2

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左手足の感覚が戻らず、茫然自失のリハビリ訓練が始まって、一人で1階のリハビリ訓練室へ行けるようになったころ、救急病院は約20日間居ましたので14日から20ー22日までの間だったと思います。大きなタライに大豆が入れてある中へ(カミさんはまくらに入っているマカロニ状の白い柔らかなプラスチックの粒だったと主張)左手を入れてみましょうということになりました。

数回手首を持ってかき回してみたところ、音とともにかすかに豆の感触が伝わってきたように感じました。この時は嬉しかったですね。嬉しかったんですが・・・・。

この頃になるとリハビリ訓練より、仕事で迷惑をかけてしまった数社の方たちになんとしても電話連絡をと焦っていた頃で、一時帰宅を担当医に却下されてうつろだった時期でした。

勿論カミさんに連絡をしてもらっていましたが、メールでこのことを知らせる必要がある会社もあるなんて思いこんで焦っていたんですね。

遅ればせながら発病後 仕事の途中でご迷惑をかけてしまった方たちに改めてお詫び申し上げます。本当に申しわけありませんでした。

この電話連絡迷走時期のこと、カミさんに車椅子を押してもらってエレベーター近くの公衆電話まで仕事先へ電話連絡に行ったところ、勢いを殺さないままカーブで車椅子から手を離して電話台に左足をぶつけられてしまいました。

大きなぶつかった時の音とともに「ごめん、ごめん」という声とカミさんの大きな笑い声が車椅子の数メートル後ろから聞こえてきて・・・、左足は麻痺しているので何も感じませんでしたがねぇ。・・・・・いや、タマリマセンでしたよ。

2011年07月06日

入院(11)愛猫・雲隠れの半蔵の災難

hanzou.jpg 救急病院からリハビリセンターに転院が決まりかけていた頃、カミさんから、愛猫半蔵が腰を痛めてビッコになったという知らせがありました。

どうやら縄張り意識の強い性格の半蔵が、近所の野良猫と喧嘩をして塀から落とされたようだという話でした。

転院が決まってから一時帰宅したときに目の前に現れた半蔵は、歩き方が見ていて恥ずかしくなるほど私と全く同じで、ヨタヨタと歩く速度といい、頼りなさといいそっくりで思わず吹き出してしまいました。

仔猫の時に知人から紹介され、我が家にきてから11年目。命名は次男で、当時よく姿を隠し、思わぬところから現れることから付いた名前でした。

人間で言えば我が家のなかでは最長老になるかと思いますが、そのときの半蔵は私にバカにされたと思ったのかすごい目で睨まれてしまいました。

半蔵の方は腰を痛めてそろそろ1年、未だに腰が曲がってヨタヨタ歩きですが、歩き方は私よりうまくなっています。

2011年07月23日

リハビリセンターへ転院・ダメージテストの1

test1.jpg (上の人物は私ではありません。念のため)

一時帰宅でご迷惑をかけた仕事先へ連絡して、ごっそり貯まっていたメールの整理、簡単な仕事部屋の点検整理など、救急病院で気になっていたことを一通りすませていた時のこと、ふいに

「このまま、彼岸に行ってしまうのかな?」と一瞬ですが倒れた時のことが過ぎったんですね。

これは経験はないので想像ですが、突然目の前に幽霊と遭遇したときと同じで(?)後になってからじわじわと恐怖を味わうのと同じなんじゃないかとバカな考えが浮かんだんですね。

倒れたときは不思議と恐怖は無く、今はただただ幸運だった事に感謝デシタ。

この脳天気さは、退院後に突きつけられた左半身麻痺のダメージが、自分で感じていたほど軽くはなかったのに、深刻にならずに済んだ一面でもあります。

で、隣の市のリハビリ施設へ移って落ち着いた頃、一週間ほどでしたか、

救急病院と同じようにMRIなど頭部検査があり、ここでは体の内部検査もあり、その後でダメージテストを経験。

上の絵は代表的なテストのひとつ。

右脳後頭部の血管が切れて脳にダメージを負った場合、人によってですが、

絵の全体をを目で認識していても、左側の花や草を脳が認識できていないので、横にある絵を見ながらでも筆が進まず空白になってしまう人もいるそうです。

幸運にもこのテストはクリア出来ましたが商売柄か、主治医からは入院中出来るだけスケッチをするよう勧められ、よく描いたと思います。

ただし、これは全くダメージが無かったから安心でしたという事ではなく、退院して一年、車の運転で注意力が散漫になったときに、愛車の前後左側を塀や壁にこすって傷を付けてしまうかたちで現れています。これって考えると怖いことなんですがね。

で、メモ描きスケッチの多くが何処へ仕舞ったのか未だに見つからないんですね。

入院中、娘からプレゼントされたウオークマンのケースと説明書も・・・・、お気に入りの落語やレコードから録音したCDがウオークマンで聞くことができず、困っとるんですね。

 

 

ダメージテストの2

test2.jpg 上は記憶力テストの回答、出来はよくないですね。

テストをした所は作業療法室。

主に上半身の身辺動作や家事、仕事復帰を目指す訓練で、入院中OT(Occupational Therapy)と呼ばれ、私の場合ひたすら左腕や左手の復活の訓練やマッサージが主でした。

で、この作業療法士の関連のない単語を聞いた後、マス目を埋めていくんですが、退院間近に受けたテストより、入院時の記憶力テストの方が結果が良かったんですね。

これは作業療法士の、ことあるごとく呟く余計なひと言がカンにさわって、やる気を無くした私の生来のへそ曲がりの性格が災いしたんですね。

困ったモンです。ン?私がですよ。

 

2011年07月24日

ダメージテストの3

test3.jpg これも簡単な丸や三角などの図形を見て、記憶して描くモノ。

勿論見ながらではなく、そのつど問題の絵柄を伏せて思い出して描くものです。

図形は徐々に複雑になっていきます。 これも問題はなかったと思います。

左腕は不自然ですが、机に乗せると肩に痛みがはしるので、下に垂らしたままです。机に左腕を乗せて痛みが無くなったのは、今年の春頃ですから回復は本当にゆっくりなんですね。

このリハビリセンターで良かったことは頭部のダメージ検査だけでなく、内蔵の検査を丁寧に調べてくれたことで、発病前、毎日欠かさず休肝日も無視して30年以上飲み続けた肝臓が若干心配ではありました。

私の悪い性格は、へそ曲がりだけでなく、適度に止めることが出来ないことで、タバコも日に二箱以上吸っていました。

タバコは40歳の時、大晦日の晩に家族の前で宣言して止めましたが、始めた頃は日にひと箱でしたが20年間一日も休まずだったので、今は少しはきれいになっていると思いますが、当初は肺の中は真っ黒だったと思います。

酒も同様で、体型は見事に洋梨型になって、酒飲みの見本のような体型を晒していたんですね。

で、内臓検査ですが、調べてもらった結果、先生は 「寿命まで、保つんじゃないかな」ですって。

寿命までって・・・、これを聞いてホッとしましたがねぇ。

2011年08月18日

センター入院生活・1

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救急病院からリハビリセンターへ移動中に、介護タクシーの運転手から「あそこは以前乗せた九州の患者さんもリハビリ施設の充実している所だから、入院希望が殺到してなかなか入れないと言っていました」と、私の運が良いことをしきりに強調。幸先のいい転院となりました。もっとも、本当に運が良ければこんな病気には・・・・。転院しばらくは検査が続き、落語「あくび指南」じゃないけれど「退屈で退屈で・・・」の日々でした。

2011年08月19日

リハビリ病棟・1

5f31.jpg 転院して4、5日後に回復期リハビリテーション病棟の四人部屋へ移ったのが4月下旬でした。これから本格的なリハビリ訓練が始まるわけです。

入院生活というものは初体験。リハビリ訓練も初体験と四人部屋生活がどのようなものであれ【三人寄れば満座の仲】、人見知りの激しい性格のまま今日まで来てしまって、今更社交的にとは無理な話ですが、兎に角人様を不愉快にさせないよう陽気な狸でいようと思ったものでした。

2011年08月20日

リハビリ病棟・2 シバさん

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四人部屋の向かいのベッドに居たのがシバさん(仮名)69歳。

強面ですが職人肌で、私と同じような気質のようで、人付き合いは苦手なようでしたが、病院内の女性患者の輪のなかにまで入れてもらって人脈を広げてくれた恩人でした。

馬が合うというのか、シバさんも集団生活で感情をモロ出しする輩を避けていたフシがありました。

この病気は脳のダメージを負った部位によっては、感情がコントロール出来にくくなるようで、会話中突然泣かれたり、訳もなく当たり散らす輩がいるんですね。ま、病気だから仕方がないんですが。居たんですね、近くに。いやぁ、弱りましたですよ。

シバさんからもらった印象深かい忠告のひとつに「看護士には絶対逆らってはいけない」

当たり前と言えば当たり前なんですが、私がこの部屋に入る前の御仁がそうだったようで、いろいろ興味深いエピソードを聞いて、素直にこの忠告に従いましたね。

その後の闘病生活がいろいろな面で楽になり随分助けられました。

他の闘病仲間も似たり寄ったりでシバさんも、毎日ジョギングして健康生活を送っていたそうですが、酒好きが祟って左半身麻痺に。

退院前の一時帰宅のとき、家族旅行に行って温泉で晩酌を頼んだときに、長男にきつく叱られたと愛好をくづしていたのが印象的でした。

入院時80キロ近くあったそうですが、退院時はスリムになって60キロ台とのこと。

約50日のお付き合いでした。

 

リハビリ病棟・3 シロセくん

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四人部屋で前後して入ったのが、ムードメーカー、鳶のシロセくん(仮名) 20歳。

驚いたことに、救急病院ではカーテンを隔てた隣のベッドに居たそうで、救急病院ではシロセくんのお母さんが夜中まで話しかけていたのを覚えています。

消灯時間を過ぎたのに何と無神経なと思いましたが、その後、作業中6メートルの足場から転落して頭部を強打。一週間意識が戻らなかったそうで、私のベッドの隣に移った時は、意識が回復したときで、シロセ母さんはよほど嬉しかったんでしょうね。

ま、自分でもその立場だったら、夜中であろうと息子に一晩中話しかけていたと思います。

事故後のダメージは歩きに出ていました。少し酔ったようにふらついていましたね。

性格は シャイで素直な好青年でした。

入院中のシロセくんの邪気のないイタズラには、ま、楽しませてもらいました。

私より一足早く退院してしまい、三人となった部屋は灯が消えたようになったのを覚えています。

リハビリ病棟・4 酒屋のテラ氏

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艶福家テラ氏(仮名)53歳。

何故か腹の立つ御仁で、一回り以上歳の離れた若い美人の女性に求婚され、幼稚園男子を筆頭に三人の息子と自分の母親の五人暮らし。

今どき三世代で、おまけにとびきりのかわいい押しかけ女房!

で、普段の生活習慣は当人曰く、昼間からビールは飲みたいときに飲む、趣味と特技は自分で作る山芋の漬け物。商売は酒屋を運営。で、脳卒中。

夕食後、廊下の角にある公衆電話で、若いカミさんに電話をしながら大きな声で泣きながら話して、看護士にイエローカードを出され、それからは五階から一階に下りて電話をしていましたね。

入院中この御仁がぽつりと呟いたひと言「女房に離婚されちゃう!」ガハハハハ。

 

2011年08月21日

リハビリ病棟・5 脳梗塞4回目の猛者・タカさん

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シバさんが退院した後に入ったのが、脳梗塞入院も4回目となる猛者で、当人曰く元ボクサーというタカさん(仮名)55歳。

眼光鋭く近寄りがたい雰囲気を撒き散らし、しばらく浮いた存在でした。

話しかけてみるととびきりのシャイだったことが分かり、現役時代の武勇伝を聞いて「あしたのジョー」の名トレーナーそっくりの風貌から即座についたあだ名がダンペイさん。

その後、食事のときにカボチャが皿に乗っていると怒りだし、食堂から部屋に戻っても怒りが収まらず、若い一年生看護士にまで説教しまくっていました。

当人の言い分は、入院した時にカボチャだけは避けてくれと言ったはずと、その後もこの騒ぎを起こし、私が退院するまで女性患者にまで浸透したあだ名がカボチャ親父。

入院慣れしているせいか、看護士の許可が下りて いないはずなのに、勝手にベッドから車椅子に乗り移ろうとしたり、一人でトイレに入ったりで、主治医もその横紙破りにお手上げのようでした。

 それにしても、タカさんがベッドから車椅子に移る光景は、動物園のナマケモノそっくりの動きの熊が車椅子に乗り移るようで、危なっかしくも一見の価値があったなぁ。

2011年08月23日

リハビリ病棟・5 1週間リハビリスケジュール

weekp.jpg シバさんが退院という頃の、つまり4人部屋にきてから二ヶ月弱の頃のスケジュールボードをメモしたものです。

NSは担当看護士のこと、気性のさっぱりした矢口真理似の年頃も同じ頃の女性でした。

PTなどそれぞれ横に名前が書いてありましたが、個人情報何とやらで消してあります。

PT(Physical Therapy)、理学療法のことで主に歩行などを含めた基本動作のトレーニング。

OT(Occupational Therepy)は,理学療法といって腕や手の日常回復(食事・洗濯・掃除や更衣、排泄等が一人でできるまで)の訓練です。

ST(Speech Therapy)、言語聴覚のこと。これがよく分からなかったのですが、別にこれからアナウンサーになるつもりもなかったのですが、ようするに発音が分かりづらいことから訓練に組み込まれたもののようです。かな?。頭部のダメージ回復訓練もあったようですが、問題なかったようです。お陰さまで今は職場復帰しとります。

 これが週5日、土曜日も軽く訓練がありますが、車椅子で訓練室へ行くのではなく、各病棟の病室で受けます。

温泉マークは入浴のこと。

訓練時間は一回に40から45分程度で、ベテラン療法士の親身な指導で中身の詰まった訓練とマッサージがありました。

 

 

2011年09月09日

回復期リハビリ訓練・1

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いよいよ念願の訓練初日、当日はダメージがどの程度かを調べる程度で、訓練といったものではなかったと記憶しています。

上の絵は理学療法室での診察で、左足首は全く反応がなく、かかとの上げ下げなど出来ず左足はやっと伸ばす程度で、曲げることは無理でした。左腕は全体に反応がなく、脳からの通信は途絶えたまま。

肩の上げ下げを正面から鏡で見ると、右肩だけが動くという為体。

マット台から何も支え無しに立つことは出来ず、二ヶ月のベッド生活で、ダメージを受けたとはいえ筋力が急速に衰えていたことを実感しました。

ッタク、困ったもんだの初日でした。

2011年09月10日

回復期リハビリ訓練・2

thera2.jpg 左足の歩行訓練は、足首保護のための装具選びから始まりました。

寝たきり生活の当初は一歩でも、半歩でも歩ければと願ったものでしたが、こうして車椅子から少しでも解放されたと分かると、現金なもので強引に歩こうとするんですね。

あてがわれた装具は乳白色の半透明なL状のプラスチック。それにマジック・テープで足を固定するもので、杖は四本足という特殊な形状でした。

装具が少しでも合わないと、歩行に支障をきたすなんて全く考えずに歩こうとするせっかちな狸オヤジに、担当のI先生は手を焼いたと思います。

で、装具は自分にフィットするのがなかなか見つからず、2日から3日試しに使って少しでも赤く腫れが出ると医療器具かスポンジ様のもので保護。工夫と交換が一ヶ月以上かかりましたね。

いや、最初は歩くなんて形容は出来ない程のお粗末なもんでしたが、立って前に進む事が出来ると分かったときは、嬉しかったですねぇ。

I先生!感謝感謝です。

 

2011年09月11日

回復期リハビリ訓練・3

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その大恩あるI先生がなかなか曲者で、学習能力薄い狸オヤジと見て取った私に、装具を着けないで強引に歩くとこうなるという写真を見せてくれたんですね。

麻痺側の左足が逆くの字になったもので、こうなると手術しか治る方法が無いとのこと。

これは効きました。・・・いや?効いたのかな。

 この写真を見せられる前に、就寝時間前に病棟で装具を着けずに立って、ベッド脇で転倒事件(?)なるものが起きてしまいました。

これは夜具に着替える時に、私が看護士に無断でベッド脇に立って、パジャマをずりあげていたとき、無意識に左足が右足の前を滑って交差、結果尻餅をついたことが院内に知れ渡ったことが原因なのです。

 幸い骨折もなく痛くもなかったんだが、隣のベッドのテラ氏の不必要な大声に、看護士が飛んできてパジャマを下げられ尻を晒され総点検されました。

こちとら尻餅を着いただけと必死に弁明をしたんですが、聞いてもらえずで、還暦過ぎのオヤジの尻を数人の若い女性看護士に晒されの、騒がなければなんのこたぁなかったんだ。

だいたい学生時代から、小さな声で(?)で話しているにもかかわらず、教師からテラ氏だけ注意される、と宣っていたこの声の大きい感情失禁の御仁が隣のベッドに居たのが身の災いだったんだ。

マしかし、いちいちナースコールを押して、看護士に確認を取ってもらうのも、入院生活に慣れてくると気が引けてくるものなのです。

2011年09月12日

回復期リハビリ訓練・4

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初めの頃の作業療法では左手の指のマッサージがひたすら続く日々でした。

理学療法は、軽いストレッチとしばらくは療法室内を軽く流して歩く程度だったと思います。

ある程度歩きに慣れて来た頃に、病院内の廊下を一回りする日が二ヶ月近く続き、200メートルくらいの短い距離でしたが、驚くほど一周するのに時間がかかったのを覚えています。

これは上の絵のように左半身を守るために、無意識に右に傾いて歩いていたのがガラスに移った自分の姿で分かり、つとめて矯正するように心がけていたのですが、これが難しかった。

退院して一年と二ヶ月現在の今、幾分かは矯正出来たと思いますが、まだ若干傾いて歩いているようです。

それと病後最初の冬がきて、左足裏が火傷をしたような痛みが現れたのには参りました。

夏が近づくにつれ、暖かくなっていつの間にかその痛みが消えたのは助かりましたが、この冬はまたあの痛みがやってくるのかと思うと憂鬱です。

何時になったら憂いなく気軽に歩けるようになるのか、ま、リハビリを含め普段の生活もなるべく動き回るように心がけ、怠ける時はあっても諦めずで、前進だけは続けるつもりなんですがね。


 

2011年09月15日

回復期リハビリ訓練・5

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毎日二時間弱のリハビリ訓練を終えると、各自廊下で衰えた足を鍛えるために訓練に励む者や、気のあった者同士休憩室で時間を潰す人ありで、就寝時間まで持て余す日が続きます。

私は病棟内ではどちらかというと陽気な患者グループの方に入っていて、その真逆のどん底オーラを出している人が近づいてくると逃げ回る方でした。

その陽気なグループの中心に、ワタリさん(仮名)という姉御肌の50代前後の美人がいて、不思議なことには誰が見ても見舞客にしか見えない人でした。

彼女は血圧が正常にもかかわらず左半身麻痺で入院となり、医者も原因が分からない怖いものを背負っていたんですが、病気に負けない強さがあって魅力がありましたね。

ある日突然「ワタリさーん、あなたの元気を私に分けてください」と、誰彼無しに愚痴をいうおばさんに後ろから肩を撫でられて、さすがの元気印の彼女もそれ以降は、その女性の影が視界に入ると怖がって逃げていました。

患者同士のもたれ合いは必要な時もあるかも知れませんが、一方的な寄りかかりは専門のセラピストではない者には辛いものです。

それでなくとも皆自分のことで精一杯、陽気を装うことも病気に対して立派な防御法のひとつじゃないでしょうかね。

2011年09月18日

回復期リハビリ訓練・6

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リハビリ訓練以外は殆ど体力を使うことなく過ごしていた毎日でしたが、同室の人たちからはどうしたらいつも就寝時間前にあんなに爆睡できるのかと不思議がられていました。いや、自分でもよくあの状況で寝られたと思います。

当たり前ですが朝は早くベッドから離れて食堂で新聞を読んだり、テレビを付けたり血圧チェックをしていました。

ナースコールを押せば急いで来る看護士、足替わりの車椅子が側にあり、段差のない床や広い空間等、全てにおいて守られる環境に慣れてしまうのがイヤで、早くこの駕籠の鳥生活から退院したかったですね。

退院したところで今までのような自由に動き回る生活は出来ないのは分かっていましたが、一日も早く退院したかったのは事実です。

この絵は(回復期リハビリ訓練・5)の車椅子の女性の目に映る5階の廊下から見た5月初旬の早朝の田園風景です。

この時期は田んぼに水が入り、周りの雑木林や済んだ空が水に映って、一年の内で一番美しい田園風景ですが、今までのように風景を愛でる心境はどこかに吹っ飛んでしまって、イヌの散歩をしている人や、初老の夫婦のジョギング、自転車通学の学生などに目が吸い寄せられて離れず困ってしまいました。

2011年09月20日

回復期リハビリ訓練・7

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外の風景を見て、後ろを振り返ると80メートル弱のまっすぐに伸びた廊下が目に入ります。

南非常口の強い光で、廊下を忙しく歩き回る看護士のシルエットが、一ヶ月も入院していると歩き癖で、どの看護士かが分かってきます。

この廊下を使ってリハビリ訓練の合間に歩行の練習をするわけですが、私の場合理学療法士のI先生と主治医の判断で自主的に歩行をさせてもらえなかったのが唯一の不満でした。

と、言うのは表向きで、生来の怠け者でへそ曲がりの私は訓練とか練習なんざまっぴら、助かっていたのは事実です。

いつまで経っても変化無しで、普通に歩いているつもりでも左足のつま先がリノリウムの床にひっかかってしまうためなんですが、退院が見えて来た頃ようやく重い腰をあげて(自主練で)若い看護士に付き添ってもらって廊下で練習も冷や冷やモノらしく、転倒の心配をされて「キャッ」とか「エッ」という短い悲鳴が、真横からのべつまくなしに聞こえてきて集中して歩くことが出来ずうるさいのなんの。

結果付き添いを嫌がられ(たのかは知りませんが)退院まで一人で歩ける自主練は許可が下りませんでした。

今も歩きはほんの少しの進歩と思いますが、脚力が少し付いたのと、幸運で(もありますが)家の中でも外出時でも転倒は一度もなく免れています。結構動き回っていると思うんですがね。

 二ヶ月目に入ると理学療法のリハビリに坂道と階段の上り下りが加わります。

2011年10月08日

回復期リハビリ訓練・8

thera7.jpg ブログ更新を少し怠けてしまいました。反省!

この病気になってからは、

日常生活はリハビリ訓練も兼ねていますので、あまり頑張らない。怠けたいと思ったら怠ける。が、全てにおいて諦めない。人や物に頼らない(特にカミさんやドア・壁・杖に)。など、生活姿勢が若干変化しました。

退院から現在までの左半身麻痺の状態は、カタツムリ程度の、気が遠くなるほどの遅さ(?)で良くはなっているようです。

で、転院二ヶ月目は相変わらず変化のない毎日でしたが、 5月に入るといろいろと変化がありました。ひとつは 初旬に、看護学校の生徒の研修の相手を看護婦長さんに頼まれ、専属のかわいい看護士さんが付いてくれました。

これって、闘病仲間の男性陣たちからは羨ましがられましたね。

向かいの病室にいた50代の独身男性が会うたびにこのことをいうので、替わってやってもいいですが、「ただし、風呂も丸裸を見らますよ」と言ったところ、その後はこの話題に触れなくなりました。

今にして思うと、病院に入院していた時は私にとっては日常ではなく、非日常でしたので、普段恥ずかしいことも、入院中は感じることも無く、徹底的にふざけていて、周りの皆に顰蹙をかっていたように思います。この心理状態は何だったのかは、また後ほど整理して説明を致します。

2011年10月15日

回復期リハビリ訓練・9

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理学療法訓練室から病棟内の廊下を歩く訓練に慣れて(?)きた頃に、少しステップアップして、坂道訓練と階段の昇降加わりました。

この訓練で自分の膝の筋力が消えていたことを実感しましたね。

歩行訓練では左上の絵のように、足の付け根の関節を軸に前に出れば振り子のように左足は前にいきますが、スロープの登りは膝がストッパーがかかって膝を曲げないと前に行かず、下りでは左膝から前のめりにくづれそうに感じて少し危ない思いをしながらの訓練となりました。

訓練士のI先生とは冗談口を言いながらでしたが、冷や汗ダラダラで厄介な課題が突きつけられました。

要するに左膝の筋力を付ければ解決するんじゃないかと、現在もなるべく膝を曲げて左足に重心をのせるようにしていますが、股関節の変形を注意しながらですので、ま、気長にを心がけています。

2011年11月10日

回復期リハビリ訓練・10(現在の状況)

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うかうかしている間にブログを10日以上休んでしまいました。

また、このコーナーを続けるのに、記憶がどんどん途絶えてきて・・・、これ以上進むと途中下車になりかねないので、現状報告から記録再開。

左半身はほんの少し回復(と、言えるかどうか微妙)で、味覚はほぼ戻ったようですが、完璧ではありません。左手が使えないので犬食いにどうしてもなってしまいます。カミさんが外出して留守の時は出来るだけ外食を心がけ、食事マナーを自己チェック。人の目は良い介護士になります。

左手は右手で添えてモノをつかむ程度。握る力は赤子の握力ほど、買い物袋にゴミを詰めて固結びが、時間はかかりますがようやく結べ、完璧ではないですが左指はこの程度。腕は調子の良い日には90度、つまり前に伸ばすことは出来ますがこれも日によって。

仕事で使う鉛筆など、どうしても左で出来ないことは工作用小型万力を台に固定して、これで削ったり、爪切りなど、全てでなないにしても万力を工夫して使っています。

足は・・・、冬が近づいてきているので歩きはギクシャク。

唯一体重は10キロ以上落ちたままを維持していますが、外見は太っていた分皮膚がたるんで10歳以上老けて見え完璧な老人。ま、病気でなくても正真正銘の老人ですがね。

リハビリ施設を退院した後すぐに鴻巣の運転免許センターへ一人で行って適性検査を受けたのは正解でした。日常のストレスはドライブで発散。大宮を起点に群馬県館林、千葉県野田と四街道、東京霞ヶ関、赤羽、横浜保土ヶ谷、野毛山、中華街等近距離ですが病気前と同じように距離数を伸ばしています。

 ただし、運転しないカミさんは助手席で叫び通しで、体重減を更新。ナンデカナァ?

2011年11月11日

回復期リハビリ訓練・11 入浴

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風呂は理学療法、作業療法、言語聴覚療法の訓練の合間の一日おきにあり、自立を目的とした施設なので、救急病院のような入浴方法ではなかったのが、負け惜しみでなくホッとしたのを覚えています。

入浴は看護士がその日によって風呂の担当が替わり、当時男性看護士は2人いましたが、たいがいは女性看護士が呼びに来て下着やタオルを持って風呂場まで一緒に行き、脱衣を手伝ってくれました。

入院中5月だけは私の専属の担当になった看護学校の研修生・ハルカさん(仮名)が背中を流してくれたんですが、若い10代の女の子の看護にはさすがに勉強台とはいえ、風呂場で自分の目が宙に浮いているのがわかりましたね。

上の絵、正面奥が4坪ほどの広さの脱衣場、裸になると車椅子で洗い場まで運んでくれますが、その後はすべて自分で。蛇口スペースは5人ほど。看護士や見習い君は洗い残しが無いかを後ろでチェックするだけ。

右手の湯には比較的軽い症状の患者が肩まで湯につかる様に出来ているんですが、私は退院まで許可が下りず入れませんでした。

2011年11月13日

回復期リハビリ訓練・12 外周歩行訓練

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作業療法は相変わらず指のマッサージが続き変化のない毎日でしたが、理学療法では、階段やスロープの昇降の他に、病院内の廊下から外へと、次々に課題が突きつけられます。

建物の外周は300メートルか500メートルだったかは忘れましたがが、平坦な床から、砂利混じりのアスファルト道路のデコボコ道を一周するのに30分近くかかり、自分でも驚くほど汗が出たのを覚えています。

おまけに担当の理学療法のI先生は私の左半身の麻痺が尋常でないことから、愛情こもった目で左足の腱切りの手術か、麻痺を緩和するかなり痛いという注射療法を勧めてきます。

注射療法は数ヶ月に一回、治るまでというとんでもない条件が付き、先端恐怖症の私はどちらもまっぴらで、軽く受け流しながらの歩行訓練が退院まで続きましたが、この手の会話が適度の緊張を生んだのか、不思議なことに現在まで続いていて、いまだに転倒を免れているんですね。

研修生のハルカさんがいた時期はまだ廊下をヨチヨチ歩いていた頃で、この絵は一日のスケジュールを終えて眠気を催すような時間帯の時に見た、療法の先生と患者が中庭のコースをのんびり歩いているスケッチですが、ボーッと締まらないメモ描きの絵になっています。

2011年11月15日

回復期リハビリ訓練・13 入院も三分の一過ぎ

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4月は下旬に初孫が顔を見せに来てくれたのはいいのですが、いきなり泣かれてしまいました。

まだ人見知りにはなってなく、倒れる前は笑顔をよく見せてくれていたのですが、生まれて十ヶ月の赤ちゃんには何かが怖かったのか、これにはちょっとうろたえてしまいました。これは悲しい方のウロタエ。

反対に嬉しい方のうろたえという経験も初めてで、仕事関係の知人でパソコンの師匠でもあるモリさんが、大切な時間を潰して車椅子用のスケッチ台を自作して病室で調整して作り上げてくれたこと。

これを横で見ていた同室のテラ氏がさかんに羨んで、しかしこのモリさんとは気易く友人などと同格に扱えない人で、私とは落語長屋における大家さんと店子の関係に例えるとピッタリ合うんですね。で、この絵描きの店子の不義理が数年続き・・・いや、また本題から逸れてきてしまいましたわい。

で、実際左手が使えないので、ノートが筆圧で動いて描きづらかったので翌日からはおおいに助かりました。

また、この月の下旬には研修生のハルカさんのリハビリ病棟の研修が終わり、この後ガン病院と小児病院の研修が待っているとのこと。救急病院でも感じた絶対数が少ない看護師の、貴重な一人の勉強の手助けをこちらもさせてもらいました。行く末は優秀な看護師にと願うばかりです。

研修中の三週間は5階病棟の窓から見える富士山を見るのが楽しみでもあったようでした。しかし五月晴れとは縁遠い不発続きの毎日が続いて皮肉なことに一日違いの翌日に勇姿が。もう一日あったら良かったんですがねぇ。

27日の研修最終日にハルカさんからはスポンジで作ったかわいい自作の歯ブラシ台 のプレゼントがあり、闘病生活もいろいろと華を添えてもらった感慨深い月となりました。

2011年11月16日

回復期リハビリ訓練・14  病室のスケッチ

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四人部屋に一人だけ、居残りの気分です。

皆は作業療法か理学療法でリハビリ訓練中か、風呂に行っているんでしょうね。

シロセ君やカボチャ親爺たちは今何をしているかは、テレビの脇の、引き出しの上のボードのスケジュール表を見ればこの位置からでも分かります。

それぞれ一日を消化している最中で、留守中ののんびーりしたひとときの眠たくなるような覇気のないカットですね。

回復期リハビリ訓練・15  廊下で

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そのまま廊下へ出てスケッチ。

右端が障害者用トイレ。

その左側がワタリさんたちの居た女性4人部屋。

よく廊下まで笑い声が聞こえてきたものです。

2011年11月17日

回復期リハビリ訓練・16  食堂

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一日三食、世話になった所です。

正面はナースの待機室(?)。ここ採血したりします。患者たちの脱走や監視するコーナー(?あ、失礼!) でもあります。

ナース室左側空間は受付で、パソコンに向かっている看護師の左に受付嬢の椅子があります。

受付正面に廊下を挟んでエレベーターが二基。分かりづらい絵で申しわけない。

食堂は結構明るく広い造りになってて、スケッチしている私の背中側は一面大きな窓で、田園風景が広がっています。

絵の右側は食堂との間仕切りがあり、テレビがデンと設えてある休息室の広い空間。

食事の席は決まっていて、私の両隣はテラ氏とフクイさん(仮名)、隣の市から来た60歳後半のじさまで、席に着くと看護師や配膳係のおばさんたちが近くにいても、時々ものすごいことを言います。

「何だい、今日も小トリのエサかい?」

2011年11月20日

回復期リハビリ訓練・17  自主訓練室

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食堂とテレビ休憩室の仕切りを隔てた横に、自主訓練するための平行棒や、車椅子込みの体重計、血圧計のあるコーナーがあります。

ここも談話室のようになっていました。

上の図は鏡を見ながら自分の歩きをチェックしている図です。平行棒の長さはこの絵の倍くらいでした。

これも看護師に申告しての付き添いで訓練です。無断で勝手に器具を使うことは許されません。

ま、入院中私は一度も自主的に訓練しなかったので、退院間近の月には殆ど毎日でしたが、看護師に催促されてようやく重い腰を上げる怠け者患者の筆頭でした。

 

2011年12月06日

回復期リハビリ訓練・18  転倒防止イメージトレーニング

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リハビリ病院の入院生活に慣れた頃、看護師に無断で、ベッド脇に立ってパジャマに着替えていた時に尻餅を着いて大騒動(?)になった事がありました。

何故?左足が勝手に右側へ滑って行ったのか不思議でしたが、その答が理学療法の階段を降りる訓練で分かりました。

階段の上から下を見下ろして、唯一自由になる右手が杖で塞がれ、いざ降りるとなると結構恐怖を感じます。

自分では緊張しないよう頭で考えていても、体は正直に反応するもので、左足が絵のように右に、足先も内側へ回ってしまいます。

訓練士のI先生はもっと足幅を広くして降りるよう指示しますが、頭は指示しても体は反応してくれません。

現在もこの症状が顕著で、緊張した時や小用を我慢して歩いてトイレに向かう時など、左足が右足前で跳ね上がってしまいます。

半身麻痺を抱えた患者には、階段を降りることはおおごとで、転倒の恐怖を常に感じてしまいます。これはそう簡単には解決できません。

常に転倒しないよう自分の体に覚え込ませるほか方法はないようです。

転倒といえば、I先生が休みの時のY先生の助言が今でも役に立っています。

右ページのメモ描きの髭の人物で職人肌と身受けました。見習い生が数日で逃げ出してしまう事で評判でしたが、訓練生の教わる時の姿勢がいい加減でいたり、勉強不足の大甘のほうに問題があったと思っています。

この間違った評判で、患者のなかにはY先生の訓練を怖がっていたむくつけき親爺たちがちらほらいました。

私が教わっていた時は一週間耐え抜いた訓練生が居て、「君はもう、何処へ行っても充分務まる!」と、賞賛の嵐の若者もいたんですね。

このY先生の今でも心に焼き付いている助言は、

「足裏で大地を掴むように歩いて」でした。

お陰さまで現在も転倒を免れており、感謝しています。

2011年12月08日

回復期リハビリ訓練・19 人は見かけに

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どうも私の粗忽は本物だったようで、入院中トイレなどで車椅子から離れる時に、サイドブレーキのかけ忘れを度々してしまい、転倒の危険ありということで、情けないことに退院まで車椅子から自由に離れる許可を病院側からもらえませんでした。

しかし、世の中は広いモノで私より上手の方たちがいました。

入院患者のなかには車椅子の背もたれに、VHSテープを二回りほど小さくした黒い箱と背中の服に留められたコードで繋げられた人がいて、その頃まだ居たシバさんに聞いたところ、これは看護師に無断で車椅子から離れた人の、度々の忠告を無視したペナルティーで、無断で車椅子から離れるとナースセンターに繋がっていて、即座に看護師が飛んでくるセンサーとのこと。(右ページ赤い矢印)

入院中親しくしてもらったワタリさんグループの一人に楚々とした深窓の奥様風の女性がいて、なんとこれがこの人に着けられていました。

夜中にトイレに行く度にいちいち看護師を呼び出すのが心苦しい思いから勝手に自由行動をとってしまったからとのこと。しかしその女性と大胆な行動のギャップに信じられない思いが未だにしています。

2011年12月10日

回復期リハビリ訓練・20  入院生活つづき

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6月に入ると、同室のシロセ君の一泊二日の一時帰宅が何度かあり、そろそろ退院の日が近いことを知らされます。

病院の入院期間はおよそ三ヶ月。

シロセ君のように若い人は一緒に生活していると、回復が早いことも素人目に分かります。もっとも彼は頭部外傷の方で、脳にダメージは負ったものの、我々のような脳出血や脳梗塞ではないので、回復の速度が違っているのかも分かりません。

入院当初線の細かった体型が、一時帰宅する度に、見る間に逞しく腹もポッコリ膨らんできたので、家に帰った感想を聞くと、一歩家から外へ出ると車や人の歩くテンポがもの凄く速く感じられて、最初のうちは外出が怖く感じるとのこと。

また、自宅近くのラーメン屋で爆食いして、日頃の病院食から解放されてタップリコッテリの油を体に仕込んで満足して戻ってきたことが伝わります。

リハビリ訓練にも慣れたある日、私が消灯時間にベッドの周りのカーテンを閉め、天井の明かりだけでこっそり本を読んでいると、当直の看護師が突然カーテンから顔を出し、本当に寝ているか狸寝入りかは気配で分かると注意されてしまいました。

看護師恐るべし。

2011年12月14日

回復期リハビリ訓練・21 地雷の存在

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シロセ君の退院がほぼ決まりかけた頃、今度は私のベッドの横にいたテラ氏の一時帰宅が始まりました。この二人とは入室がほぼ同時でしたが、三ヶ月を待たずに退院していきました。

この病院に入院したとき、頭部検査の他に体全体の精密検査があって、テラ氏は脳出血の他、頭部動脈瘤の小さい瘤が三カ所、他に糖尿も見つかったそうで、55歳の年齢で、若い奥さんと幼稚園児を筆頭に三人の男の子の今後を考えると、かなりナーバスになっていたと思います。

なにやら夢中になって雑誌を読んでいるテラ氏に無断でスケッチをしていた時、涙を流している場面を度々目撃しましたし、皆と世間話の途中で突然脈略無しにテラ氏が泣き出すことがあって、必死になだめた事もありました。

同じ病気とはいえ、当時は感情失禁なんて言葉すら知りませんでしたし、脳の壊れた部位によって人によってはこんな症状を起こすんですね。

退院直前だったシバさんは入院中に見てきた患者さんたちの面白いエピソードを語ってくれて、この症状も知ってはいたと思いますが、身近に現れたのは予想外だったようでかなりの拒否反応を私に示していました。私も同じくでしたよ。

しかし今後闘病生活を一緒にしていかなければならないので、話題選びにこれでも結構気を遣ったことを覚えています。

上のスケッチはムードメーカーのシロセ君です。念のため。

2011年12月15日

回復期リハビリ訓練・22 危険区域

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入院当初は私の隣のベッドということもあり、テラ氏とは自然と会話が生まれ、リハビリの情報交換など、円滑な交流だったと思います。

PTやOTの訓練時間が同じ時は一緒に行っていたのですが、テラ氏の人となりがある程度分かり、円満な交流が順調に始まったある日、エレベーターに先に乗り込んだテラ氏が突然、私の横にこびとの私が居ると言いだしました。

同じ動作でそっくりのもう一人の私が眼の隅で見えたと気味の悪いことを言いだしたので、軽く打ち消すように冗談事のようにしたのがテラ氏の感情を害したようで、後で考えるとシコリになっていたのかも知れません。今となっては藪の中ですが。

 

2011年12月16日

回復期リハビリ訓練・23 危険地帯に近づく

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病院に入院して二ヶ月も過ぎる頃は、顔見知りも出来、人との交流の輪が自然と広がり、自分の症状のある程度が予想できます。

また、この頃はシバさん、ワタリさんという私が大変世話になった人たちがすでに退院していました。

脳卒中の場合突然の退院はありません。その前に自立して生活するためのお試し期間が数回あります。

この一時帰宅の最初は、患者と家族、患者担当の作業・理学療法士とホームヘルパー三人が、患者の自宅へ行き、日常生活の介助(玄関や廊下、階段、風呂場、トイレなどの必要な箇所に取り付ける手すりなど)の相談と、区や市に申請する為の手続きなど準備があります。

この一時帰宅が決まると、同室の人たちに遠慮?して分からないように帰宅する患者が殆どで、でも、分かってしまうんですね。妙にウキウキと日頃見たことがない歓びが体から溢れて、漏れてしまっているんですね。

同室だったテラ氏が昼時に一時帰宅から戻ってきて、食堂で隣に座ったテラ氏に、帰宅した様子を聞いてみたところ、自宅兼店舗の生活の場である二階から唯一ある外階段の上り下りが危なっかしくて怖かったこと。

また、散歩を試したところ、坂道や道路の段差、砂利道などで転倒の恐怖が常に付きまとうこと、カミさんがテラ氏の体を労らないで子供たちと先に歩いて行ってしまった不満。

周りの人や車がフィルムの早回しを見ているように速かったことなど、退院後の不安を感じさせてくれました。

上の絵は食堂です。席は同じ病室の人たちと一緒の席と決まっているわけではなく、シロセ君、カボチャ親爺は別の席で、テラ氏だけが私の隣の席でした。

2011年12月17日

回復期リハビリ訓練・24 地雷を踏む

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私には理学療法の訓練中は、よそ見する余裕などありませんでしたが、訓練も回数を重ねるごとに慣れて日を重ねると、顔見知りの患者のダメージが素人目におよそどの程度か分かってきます。

同室のテラ氏の歩きは補助装具を必要としなかったし、歩きの回復は目に見えて上達してるように身請け、床に座って自力で立ち上がれてもいたし、主治医から訓練時間外に廊下での自主歩行の許可が早々に出たくらいだったので、その帰宅後の不安は考えすぎじゃないかと思って、自宅に戻ればすぐに以前の生活ができるよと、軽く言ったところ、テラ氏の感情の堰が切れたようで、突然怒りに点火して大爆発!私はその爆風をモロに受けてしまいました。

迂闊にも6月に入ってテラ氏の感情失禁が途切れていたので、忘れていたんですね。

食事中の周りの人たちはテラ氏が何を怒って居るのか見当が付かず見事に目がテン。私は唖然呆然何が何やら分かりませず、テラ氏の退院まで爆弾を抱えるような気まずい日々が続いてしまいました。

この大爆発も現在思い返してみるに、医者でもないのに分かったような、と受け取られかねない言葉にあったのかも知れません。

この日を境にテラ氏のお守りに廻されていた私の厄介な役回りは無くなったんですが、迂闊なナグサメ言葉は危険を孕むってのを肝に銘じましたよ。クワバラ、クワバラ。

2011年12月23日

回復期リハビリ訓練・25 退院の1

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シロセ君が退院した後、程なくして若い奥さんに付き添われてテラ氏も退院。

帰宅直前に、何も事情を知らない(と感じました)テラ氏の奥さんにせっつかれたんでしょう、OT訓練中の私のところへ、うんざりした顔のテラ氏と奥さんの二人で退院の挨拶に現れ、「もう、全て女房の言いなりですよ」という言葉を残して艶福家テラ氏が帰って行きました。ホッ。

上のスケッチは自分のベッドで書き取り勉強中のシロセ君。

2011年12月25日

回復期リハビリ訓練・26 退院の2

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梅雨まっただ中の四人部屋は、私とカボチャ親爺の二人だけの静かな入院生活になり、後から誰が入ってくるのか、お互いの話題はこのことだけで会話が続きません。

脳卒中の発症が頻繁になる時期は12月から2月迄が圧倒的に多く、四人部屋は私が退院するまで、結局誰も入ってきませんでした。

 

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2012年01月07日

回復期リハビリ訓練・27 退院の3

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一時帰宅が許された7月初旬は、まだ自分の症状が冷静に理解出来ていなかった頃で、結構楽天的に自分を見ていました。

退院後の自宅改造相談で、風呂場とトイレは手すりが必要なのは納得出来ましたが、風呂場の転倒を危ぶんだ看護師やケア・マネージャーさんたちベテラン指導者の勧めで、風呂場の浴槽内に椅子と滑り止めマットを、湯船に浸かるときだけ使うことになり、簀の子は滑りやすく危険ということで使わないことになりました。

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2012年01月11日

回復期リハビリ訓練・28 退院の4

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一時帰宅の数日後、本格的な退院の手続きがあります。

それは栄養士にカミさんと一緒に食堂に呼ばれて、自宅での食事指導でいよいよ退院の実感が湧いてきます。

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2012年01月19日

回復期リハビリ訓練・29 退院してから

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退院後、10日ほどしてから浦和駅西口に当時あったユザワヤへ、買い物がてら自分の病後の現状を知るため出発。

我が家から最寄りの駅まで今まで普通に歩いて10分弱だったのが、約30分も。切符を買って反対側にあるホームに向かったところ、目の前で乗る予定だった電車が出てしまい、のっけから現実を突きつけられました。

幸い大宮駅川越線ホームはエレベーターがあり、構内の東北線ホームのエスカレーターもクリア。エスカレーターは病後初めての経験で、リハビリ訓練に無かったんですが無自覚な性格が幸いして無事セーフでした。

電車で初めて席を譲ってもらって助かったのは良いんですが、席から立つという単純な動作が、自分で思っていた以上に脚力が低下していたため停車して浦和駅ホームに移るまで、タイミングが取れず苦戦。また浦和駅構内は駅外へ出るまで階段に次ぐ階段でこれも苦戦。せっかちな性格を封印してゆっくりのんびり移動でこれもようやくクリア。

ユザワヤは一階にある画材を見て回り、油性ペンや篆刻の石を(左手が麻痺なのに・・・バカだねぇ)数点購買。ところで、ここはあと一月で、東口パルコへ移転のため閉店とのこと。お気に入りの店がまた一つ消えてしまい残念。

病院でテラ氏の奥さんに教えてもらったユザワヤ近くのオススメの喫茶店へ移動してたっぷり休憩。これも5・6分で行ける距離を約20分。

帰りも休み休みでしたが目標のひとつだった長旅が無事無傷で帰宅でした。

現実は辛いモノでしたが、なにより歩いて移動出来たというのが、辛さより大きい歓びでした。が、介護の為と称して一方的に同行を言い張ったカミさんが、私の周りをうろちょろして、こちとら気が散って歩きに集中出来ず、歩きずらかったのなんのったらありませんでした。

2012年02月14日

回復期リハビリ訓練・30 退院後の木工作品1号目

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左半身麻痺二年目が近づいてきた1昨日、鉄道模型ケースが右手一本で仕上がりました。

材料は昨年お中元で頂いたそうめんの桐箱を解体して、一回り大きく釘穴は竹釘に楊枝を仕様。箱の左右は、残りの桐材が足らず使用済みのアガチス材。

アクリル板を買ってきて上下に開閉するように切れ込みが入れてあります。

天地約25センチ、左右39センチ、奥行き約7センチ。桐材とアガチス、アクリル板と爪楊枝を使いました。中に入るエアフィック社のHOゲージ鉄道模型と線路は義兄の遺産分け。

回復期リハビリ訓練・31 退院後の木工作品1号目・・・2

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半世紀前のイギリス・エアフィック社の鉄道プラモデル。

HOゲージサイズに縮小・デフォルメされた貨車や蒸気機関車のフォルムが見事で見飽きません。

義兄が亡くなり家族の無理解で捨てられそうになったのを、縁あって私の手元にきました。

ケースが9割がた仕上がった時に、偶然三回忌の電話があり、これは義兄が手元に引き取りたいんだと感じ、一昨日仏前に供えてきました。

プラモデルと侮るなかれ。モノによっては、女性が宝石を愛でるのと同じで、身近に所有することで気持ちが豊かになる貴重品なんですね。

2012年02月24日

回復期リハビリ訓練・32 退院後の運転・・・1

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退院して、まず第一の目標は車の運転が倒れる前と同じように出来るか、入院中はこのことが気がかりでした。

隣の県で一人暮らしの高齢の母親の雑用に車は必需です。

で、一人で鴻巣にある運転免許センターまで運転適正検査を受けに行って来ました。こういう情報は、入院中運転を必要としている患者同士の交流で、どうやら無断で病後の運転は禁止されているようだとの会話が飛び交っていました(ちょっと大げさですが)。

カミさんが同行しなかったのは、どうやら私がハンドルを握るのに時期尚早と思ったのか分かりませんが反対だったようです。

結果は上の表に出ましたが、ま、とりあえずは充分注意して運転は可能と出たようです。

2012年04月07日

回復期リハビリ訓練・33 雲隠れ半蔵記・・・1

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半蔵が逝ってしまった。

3月に入って三寒四温とはほど遠く、寒い日が続き半蔵の衰えが急に目立ち、家の中で粗相してしまったり、のべつ食事を要求するようになっていた。

3月中旬のこと。私がパンを食べていたとき、よこせというのでちぎって与えると、うまそうに食べるという珍事が始まりだった。

それまで今まで見向きもしなかったチーズを食べたり、食事中家内の横に張り付いて前足でテーブルの料理を要求など、呆けが始まったのかと心配するほどだった。

上の絵は、亡くなる三日前に、いつもの習慣で風呂の湯を飲みに来たのが最後の半蔵との触れあいとなってしまった。

2012年04月08日

回復期リハビリ訓練・33 雲隠れ半蔵記・・・2

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一昨年の夏に、脳出血から生還して退院した時、どういう訳か半蔵も同じように不自由な歩行をするようになっていた。

前足もx脚になっていたが、日に日に回復したように見え、不自由ながらも元気になると、私の歩く先々に半蔵が現れて歩行の邪魔をするように目の前で横になるという、私専属のリハビリ訓練士にでもなったような日が始まった。

いかにも「踏めるもんなら、踏んで見ろ!」といった目を向け、これみよがしな態度ですが、これが家の中での歩行訓練に大いに役立ち、上がらない左足を努めて挙げて歩き、ほんの数ミリの段差や左装具底のひっかかりには転ばないようになったのが成果でした。

一度だけ若干の失敗はありました。

台所でコーヒーを入れていた時、いつの間にか現れた半蔵のしっぽをうっかり右足の土踏まずで踏んでしまい、「痛ェじゃねぇかッ」ってな大声で叫ばれ、幸いにも(?)私の足裏は人より土踏まずが深いドーム状になっているので、怪我をするほどではなく冷や汗程度のケアレスミスでした。

回復期リハビリ訓練・33 雲隠れ半蔵記・・・3

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プライドが高かった半蔵が、一階日本間のソファーも自力では上がれないほど脚力は衰え、二階に上がる時は家内を呼び、抱き上げてもらって自分の居場所である長男の部屋に行くまでになった半蔵を見て、覚悟しなければならない日が近いことを実感した。

日中は家内と私が居る一階で寝るようになり、夜は今年2月に長男の枕元で小水して叱られてから玄関で寝るようになっていた。寒さ対策とトイレは、暖房具を床に引き給水シートを家内が設えて、三和土に降りて小用を済ませていた。

しかし、夜中に三和土で小用あと、上がり框の30センチ強の段差が上れず、一階玄関前の部屋で寝ている私を呼ぶことが度々で、真夜中にそれも寒中布団から出て装具を付け、玄関三和土までの動作はかなりしんどい作業だった。

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