それ行けラッキー[226]親切な子供たち
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童話の世界を見ているような微笑ましい場面ですが、現実はこの親子は大変危険な状況に置かれているんですね。何時不意に母熊が襲ってくるか分からない、雄大なロッキーの大自然を満喫している家族に死が隣り合わせの生活というのを象徴していたシーンでした。
監督・脚本 スチュワート・ラフィル 撮影 ジェラルド・アルカン 1975年製作アメリカ
人の気持ち感情を、逆なでした、とげとげしいことをいうマナー違反の言葉。胸刺し言葉ともいうそうですね。重箱の隅をつつくように、相手をいたぶるのも江戸しぐさでは無粋とされ、また、商人はお客様に、こういった言葉を投げつけられても、我慢する器量を持つように、日頃から心がけていたとされています。いや、いや、商人だけではありません。恵まれない商業絵描きとて同じです、
毎年正月に五代目の志ん生の『火焰太鼓』を聴くのが習わしで、気分良く年頭を迎え、暮に聴く噺に、『御神酒徳利』があります。この噺は2パターンあり主人公も別々です。、通い番頭の善六さんが主人公では、江戸から大阪まで道中に面白いエピソードを挟んで、鴻池の娘の病気を治すところまでの長い落語と、もうひとつの噺の主人公は八百屋で、三島まで行く途中の宿で、(通い番頭のパターンと同じ内容のエピソードがあって)途中で逃げ出してしまう、短い方、と、いっても40分近い落語があります。パターンは似通っていても同じ『御神酒徳利』なんですね。若い頃は前出の長い方の『御神酒徳利』が好きでしたが、今は五代目柳家小さんの演る八百屋に何ともいえぬ愛嬌を感じて、好きですねぇ。
上の絵は唐人飴売り。このほかに孝行糖売り、ホニホロ飴売り、土平飴売り、お万が飴売り、狐の飴売り等々、当時の飴売りや薬売りは異様な姿をした売り子が多かったとあります。それもこれも世知辛い世間様から、一文でも多く稼ぐ工夫が見て取れます。当時の飴がどんなものか分かりませんが、今でいう駄菓子のようなものだったのでしょうか。三代目金馬さんの噺を聞いていると、庶民(長屋の住人たち)のバイタリティーを感じます。あ、長屋の住人で忘れてはならないのが糊屋の婆さん。着物を洗った後、糊を付けた着物を張り板に貼って日光に当て、今で言うアイロンの役目をする、あの糊が結構需要があったのでしょうね。
一昨日の地震には、魂消ました。病後は何があってもジタバタしなくなりましたが、正直いって、あのときだけはジタバタできなかっただけのはなしでした。仕事部屋はメチャクチャ、怪我がなかったのが幸いでした。東北・関東の一日も早い復旧を祈るばかりです。大丈夫でしょう、昔から日本にはこの絵にあるように、思いやりと譲り合いの精神が息づいているんですから。
虫の目の位置から見た虫の世界「ミクロコスモス」も魅了されましたが、、今度は自分が鳥になって空を飛んでいるような錯覚を覚えた映画でした。監督 ジャック・ペラン 2001年製作 フランス映画でした。
泉岳寺近くの長屋の浪人、千代田卜斎(ぼくさい)から、売れたら折半という約束で、二百文で仏像を預かったくず屋の清兵衛。これを細川家の家臣、高木作左衛門が三百文で買ってくれた。この仏像を作左衛門が洗うと、台座の紙が破れて中から五十両の金が出た。
この美談が細川家の殿様の耳に入って、高木作左衛門が茶碗と一緒に、殿様の目通りを許された。その場に居た鑑定家が、作左衛門の茶碗を目にして顔色を変え「これは世に名高い井戸の茶碗でございます」と。で、その場で茶碗に三百両の値が付いて殿様の物に。
高麗時代末期から李朝前期(十四世紀)に、朝鮮半島で焼かれた茶碗。高麗茶碗のなかの代表的なものがこの井戸の茶碗。茶会記に初めて載ったのは天文六年(1537)、日本に来たのは十六世紀前半。茶道具として喜ばれたのは十六世紀後半からのようです。
道路の七割は公道と考え、残りの三割の道幅を自分が歩く道として、救急の人たち、急ぎの用がある人たちのために往来することを常に考えて歩く。独りよがりにならないよう、周囲の気配りを忘れないで江戸時代の人たちは歩いたんですね。登・下校の中高生たち、お願いしますよぉ。
発病前は毎日判で押したように5時に起床、ファクシミリとメールの点検後、即仕事にかかりエンジンが暖まったころにトイレ。その後朝食。午前中は机から離れることはありませんでした。
これが毎日ですから、また、これといった体の変化などなく、当然健康診断などせず、今まで病気で入院などなかったので、健康を過信していたことがいけなかったんでしょう。
当日はカミさんが外出中で、昼食後に請求書を郵便局に投函、仕事疲れがあったので、仕事部屋でちょっと横になろうと薄いマットレスをひいていた時、突然後頭部でボーンと音がしたように思い、前のめりにマットレスに鼻をつっこんでいました。
起き上がろうとすると、もう左手の自由がきかなくなり始め、座ることもできずでしたね。
カミさんが帰宅するまで15分から30分くらいこんな状態でいたと思います。
上の絵は救急病院からリハビリセンターへ移ってからのもの。 入院中のことは思い出したくないことが多く、記憶も薄れてきていますが、正直に記録していくことにします。
監督と脚本 サンドラ・ネッテルベック、撮影 ミヒャエル・ベルトル、製作2001年 ドイツ