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ベッドに縛り付けられていた生活から、食事、トイレと車椅子で移動が可能になって少し気持ちの余裕が出た頃に、車椅子で病棟内の散歩を始めました。
ある日、外の風景を見に窓に近寄ってみると、左側のビルに見覚えが・・・・。
倒れる前に義母やカミさんを車に乗せて何度か連れて行った病院だったんですね。ひとつの事が分かると、見慣れた日常だった日が蘇り、現状の自分とそれまでの日常の落差に、狸に化けたつもりの自分もさすがに愕然となりましたね。間抜けな話ですが、この日まで何処の何という病院に厄介になっていたのか理解していなかったんですね。
江戸時代(1603ー1867)の町人の総人口ってのをみると、享保18年(1733)に総数53万6千余。男女比でいうと男が約34万人で、女は約19万人と約半数が女性でした。
その約百年後の弘化元年(1844)では総数55万9千余人と増え、男29万人余、女26万8千人と男女比が近づいていますね。
もともと地価も高かったので貸家業も増え、そのピンは芝田町八丁目の仙波太郎兵衛という豪商。江戸市中にある約六十ヶ所の屋敷の地代と店賃収入だけで、文化年間(1804ー1817)のうちの一年間に約4千両も得ていたとあります。大雑把ですが、一カ所だけの平均が年間約66両ですね。それも本業とは別の収入!・・・魂消ますねぇ。
OK牧場の決闘(1956)に続いてジョン・スタージェス監督が1958年に発表したヘミングウェイ作品の映画化。この後、荒野の七人(1960)大脱走(1963)と、この監督の代表作が続きました。私の未見の映画の指針としている双葉十三郎さんの「ぼくの採点表」では白星三つ黒星三つと大旨好評でしたが、主役のスペンサー・トレーシーの素晴らしさが分からない私には、この映画は同監督の代表作のように繰り返して見たいほどではありませんでした。
最近はなるべく身軽に(な気持ちで)外出を心がけているのですが、スーパーやモールで買い物途中、売り場の狭いところや、トイレの出入り口付近で、私の歩きの邪魔にならないように気遣って、待ってくれている方がいるんですね、で、かえって気が引けてしまって、申し訳ない気持ちからすぐに謝ってしまいます。こちらも他人様の邪魔にならないようにしてはいるものの、前に向かって歩かなければ(リハビリの)先へ進めません。精神的に強い方ではない自分が最近気付いたんですが、兎に角弱者はしぶとくあれ!なんですね。
救急病院に入院してから二週間頃ですか、ここら辺はメモを書いていなかったのでうろ覚えですが、そろそろ入浴ということになりました。
病気の最中は風呂に入りたいという発想はないものですが、二日に一回は(毎日ではなかったと思います)二人の看護師が汗だくになって、ベッドにビニールシートを敷いて尻をぬるま湯で洗ってもらっていましたが、とうとう風呂に入りましょうという日がやってきました。
この丸太ん棒の体を、どうやって?と不振に思っていましたが、考える余地なく風呂場に連れて行かれ、穴の開いたビニールをハンモック状にした器具に座らされ、裸になり、エー、よく映像で捕獲されたイルカが水族館の水槽に入れられる時にクレーンでイルカをハンモックに吊して水槽に入れるでしょ、それと全く同じように電動の入浴器具で湯に入れてもらいました。
こちとら運動嫌いの、おまけにインドア商売でぶよぶよの中太りの体を、自分の娘より若い、おまけに結構かわいい娘さん二人に洗ってもらって、嬉しかったでしょなんてカミさんにも言われましたが、そうは思えませんでしたね。あちらは仕事で見慣れているでしょうが、こちらはコンプレックスの塊。おまけに裸になった途端、トイレに行きたいと言ったんですが「ここでやっていいですよ」・・・で、上の絵のようにシャワーをかけられ、いや勿論、湯に入る前ですが・・・タマリマセンでしたよ。
入浴をさせてもらった頃、たぶんその後だったと思います。リハビリ訓練を始めますということで、看護師に車椅子を押してもらって4階から(だったかなぁ)トレーニング室がある一階へカミさん同伴で向かいました。
私の担当の理学療法士の先生は20代の美人の先生でした。
早速車椅子で膝くらいの高さのマットへ座る乗り移りという動作、車椅子から別の環境に移る練習から始まりました。
これが普通に出来ないんですね。
左手足の自由がきかないのでどうしても座ると右に極端に傾いてしまいます。おまけに私の性格はせっかちで、先生の開始の声を聞く前に乗り移りを初めてしまい、これだと転倒の危険大で、当初かなり先生を困らせたと思います。
この性格が災いしてこの時期にトイレで転倒をやらかしてしまいました。
病院内の車椅子マークのトイレの中は広く出来ており、勿論安全なように手すりが便器の左右どちらかに設置してあります。せっかちな私は車椅子から便器に勢いよく座った途端、便座に尻がバウンドをしてタイルの床に仰向けに転倒してしまいました。理学療法であとで訓練をしましたが、床に横になった場合を想定して起き上がる訓練をまだしていなかったので、この時の私は亀の仰向け状態。ドアの外にいたカミさんに呼んでもらった男の看護師に助けてもらって・・・恥ずかしかったなぁ。
この背もたれも肘掛けもない所で座ると、バランスが崩れるし(どのくらいの傾きかは自分で分かりませんでしたが、後にガラスに映った自分の姿を見て愕然としたくらい大きく傾いていました)当然長時間は体がもたないんですね。これだと疲れるし、骨盤の変形もあるのでまず、まっすぐに座ることを練習。で、発病から寝たままの入院生活で衰えた体中の筋肉のストレッチが訳の分からないまま始まったんですね。
理学療法の美人の先生に、我がリハビリパンツから微かに臭う悪臭を二人で嗅ぎながらのストレッチ・・・・入浴とストレッチで、人間の体は汚物袋なんだなぁと実感した次第です。
約二週間の不自由な体で寝たままの生活。たった二週間でも筋肉は溶けていくように無くなるんですね。これは恐怖です。
左手足の感覚が戻らず、茫然自失のリハビリ訓練が始まって、一人で1階のリハビリ訓練室へ行けるようになったころ、救急病院は約20日間居ましたので14日から20ー22日までの間だったと思います。大きなタライに大豆が入れてある中へ(カミさんはまくらに入っているマカロニ状の白い柔らかなプラスチックの粒だったと主張)左手を入れてみましょうということになりました。
数回手首を持ってかき回してみたところ、音とともにかすかに豆の感触が伝わってきたように感じました。この時は嬉しかったですね。嬉しかったんですが・・・・。
この頃になるとリハビリ訓練より、仕事で迷惑をかけてしまった数社の方たちになんとしても電話連絡をと焦っていた頃で、一時帰宅を担当医に却下されてうつろだった時期でした。
勿論カミさんに連絡をしてもらっていましたが、メールでこのことを知らせる必要がある会社もあるなんて思いこんで焦っていたんですね。
遅ればせながら発病後 仕事の途中でご迷惑をかけてしまった方たちに改めてお詫び申し上げます。本当に申しわけありませんでした。
この電話連絡迷走時期のこと、カミさんに車椅子を押してもらってエレベーター近くの公衆電話まで仕事先へ電話連絡に行ったところ、勢いを殺さないままカーブで車椅子から手を離して電話台に左足をぶつけられてしまいました。
大きなぶつかった時の音とともに「ごめん、ごめん」という声とカミさんの大きな笑い声が車椅子の数メートル後ろから聞こえてきて・・・、左足は麻痺しているので何も感じませんでしたがねぇ。・・・・・いや、タマリマセンでしたよ。
端から相手の話を無視、拒否するような「しかし」「でも」「だって」など、自分中心で相手を尊重しない態度って、気が付かずにする時もあったりします。人間ですからね。そのときの体調や状況によって平常心が保てないときもありますが、大旨相手のいうことを素直に聞き、それで異論があれば柔らかい言葉と態度で反論したいものです。常に謙虚であれってことでしょうね。
クイズ問題を考えて作るのは好きな方ですが、自分が作ったクイズも含めて解くのは苦手で全くやりません。このストーリー仕立てのクイズは15年前の作品ですっかり回答を忘れていましたが、答えのページが見つかりました。
ここ1ー2年で徐々に演芸・落語の関心が薄れてきてしまいました。今はたまに昔の名人上手の録音を楽しんでいる程度です。で、私の青春時代に間に合った一人に、落語黄金期の頂点にいた八代目桂文楽がいました。明治25年(1892)に生まれ、昭和46年(1971)に亡くなるまでずっと売れ続け、生前は落語といえば「文楽・志ん生」と呼ばれた落語界の頂点の人でした。今はビデオでその高座を見ることが出来ますが、独身時代に晩年の文楽でしたが体感したそのすごさは、現在残っている映像からでは全くといっていいほど伝わってきません。
3年前に絵本「おおきな博物館」を仕上げるため、九州国立博物館で取材中、陶芸を展示しているコーナーに一歩足を踏み入れた時に突然肌に粟を生じ、吸い寄せられるように大きな白磁の壺の前に気が付くと立っていました。
横にいたキュレーターの説明では、有名な作家の家から盗み出され、捕まえられそうになった泥棒がその壺を道路にたたきつけて粉々に割ったそのかけらを元通りに復元したものだそうで、陶芸の良し悪しが分からない私にも伝わってきた本物のオーラがその白磁の壺にはありました。絵でも陶芸でも同じですが、本物を自分の目で見なければ映像や写真からは伝わってこないのと同じと、改めて実感したものでした。
八代目桂文楽といえば「船徳」「明烏」など持ちネタは30席足らずですが全て絶品でした。文楽襲名以前の馬之助時代から、高座に上がると「明烏」「明烏」という客席からの声で、他のネタをやらせてもらえなかったと、文楽さんの自伝「あばらかべっそん」にあります。
上の絵は町内の札付き、源兵衛と多助が、お稲荷様のお籠もりと称して、日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛の堅物の一人息子時次郎が吉原に向かうシーンです。
ブルーの空きスペースは手前が𠮷徳稲荷。時計回りでその左から明石稲荷、九郎助(くろすけ)稲荷、開運稲荷、榎本稲荷。𠮷徳稲荷の左にある道が衣紋坂その左脇に見返り柳。坂を下って大門。中に入って中央の通りを仲の町(なかのちょう)で両側遊女屋がたっぷり詰まった吉原全景。大門潜ればどんな堅物でも「ここは・・・お稲荷様じゃ・な・い・な」って分かるはずですが、時次郎はお茶屋まで上がり込んで、ようやく気が付いて大騒ぎするんですね。
明暦2年(1656)に、幕府から理由不詳のまま吉原に移転命令が出て、日本橋から浅草裏に移転することになったんですが、翌年の一月に江戸史上最大の火事と呼ばれた「振り袖火事」が起き江戸の三分の二が消失。 遊女屋は仮小屋から営業を始め、6月に遊郭が完成。移転前を【元吉原】、後の不夜城を【新吉原】と呼びました。
画面は大門(おおもん)。入って左に【面番所】(町奉行の与力・同心が立ち寄る番小屋)。その向かいは【四郎兵衛会所(吉原会所)】(吉原へ出入りする者を監視するためと、遊女の逃亡を防ぐ監視小屋)で、女性は通行証が必要だった。
メインストリートの両側は【引手茶屋】 。源兵衛、多助と若旦那は、ここでお稲荷様のお巫女さん(花魁)を 呼び、宴席の手配や揚げ代などを支払うシステムになっていたんですが、町内のワルはどのように若旦那を騙したのか・・・。八代目文楽さんが生きていた時代はまだ新吉原があった頃で、遊郭の空気が体に染み込んだ噺をしていたのではと・・・いや、こちらの勝手な想像ですがね。