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2011年12月 アーカイブ

2011年12月01日

ラフスケッチ(3)と、立川談志さんのこと・その3

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編集者と共著の童画家とは指定された日時の30分ほど前に、浅草ゴロゴロ会館前で待ち合わせして、受付でチケットを買って入ると、ブラック独演会もぎり(?)カウンター付近で、黒門付姿の外人と小学生の男の子がじゃれ合っていて、たぶんそれがブラック親子だったと思います。

時間がまだあるのでとりあえず客席に行こうということになり、二階はすでに満席で、三階テラスの狭い客席に腰を下ろしても、心は心ここにあらずの心境でしたね。

開口一番は記憶違いかも知れませんが談志さんの「堪忍袋」。

薄い壁一枚隔てた粗末な仕切りの長屋で喧嘩が絶えない夫婦のところへ大家が仲裁に入り、それでは堪忍袋を縫って袋の中に日頃の鬱憤をはき出せば、少しは気が休まるからと知恵を出す。この評判を聞きつけた近所の住人がひっきりなしに借りに来て、堪忍袋は満杯になって破けてしまう。

この噺のサゲで会場の音が割れた音響に加えて、お弟子さんたちが吹き込んだやる気のない悪態の粗末なテープが流されて一挙に興ざめでした。

談志さんが退席すると、編集者にそくされて楽屋へ、まさにトラの穴に向かう心境でしたョ。

廊下左の思っていたより広い六畳ほどの日本間に通され、目の隅に隣四畳半ほどの日本間に数人の男性が座っていて、その中に志の輔さんの顔を記憶しています。

で、大きな座卓を前にして中央に家元談志さんが座っていたんですね。

2011年12月03日

ラフスケッチ(4)と、立川談志さんのこと・その4

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初対面の決まり切った挨拶の後、名刺交換と出版の許可を貰いに来た旨を編集者が説明すると、意外とあっさり許可が下り、自分で蒔いた種がこれで無事発芽するか、期待と安心がジワジワ一緒にきましたね。

ここでガチガチに固まった三人の前にお茶が出され、目の前の家元にそくされて茶を一口飲んだ途端、腹が落ち着いたのが分かり周りを見る余裕が出て、さっきから家元の周りでうろうろ動き回っているのがブラック師匠の息子と、私が今まで出会ったことがない不思議な雰囲気の中年男性が一人、不作法にも立って我々の横で見下ろしていたのが印象的でした。

ここでの詳しい会話は、聞き取りづらいボソボソした談志さんの小声で突然始まった「へっつい幽霊」で、全て他の雑談内容は消し飛んでしまいました。

まさかここで?道具屋夫婦の会話を、裏の長屋の厠の中で聞きつけた渡世人の熊五郎の登場から聞けるは!・・・。

残念ながら、かすかに聞き取れる程度の聞きづらい小声だったので、どこまで噺を続けたのか、どの段階で楽屋を辞したのか、あのときのおぼろな「へっつい幽霊」だけが耳に残って他ははっきり覚えていないんですね。

ラフスケッチ(5)と、立川談志さんのこと・その5

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虎の尾を踏まなかった安堵感で、ブラックの落語を聴いて行くという二人を残して浅草駅へ、これでようやく出版してもらえるという歓びで一杯でした。

後になって「へっつい幽霊」をサシで聞けた幸運を同席した二人に感想を聞いたところ、何を話していたのか緊張とボソボソした声で分からなかったそうです。

当時、東京落語会のチケットをまわしてくれた電通の社員で、私と同郷の談志ファンに出版の許可を貰いに家元に会うことになったことを言うと、滅多にない幸運だからとさかんに言われ、何が幸運なものかと反発したもんです。

今は話題に上りませんが、バブル絶頂期に、一風変わったうるさ型の蕎麦屋の店主が評判を呼んだことがありました。

この評判を聞いて食いに行ったたグルメの知人の試食記録を年賀状で貰ったことがあります。

こだわりの手打ち蕎麦屋という店に入って出てきた蕎麦に箸を付けた途端、最初の蕎麦は汁をつけないで食うのが通だ!とか、どこそこの老舗蕎麦屋は二流だのセコだのと、自分の打った蕎麦のいかに上等かをまくし立てる評判の店があったとのこと。

こんな講釈を聞きながらだと旨い蕎麦も味もあったもんじゃありません。

自分の貴重な時間を潰してわざわざ出向いて自腹切って、店主の五月蠅い自慢たらたらの講釈なんざ効きたくないもの。という姿勢は蕎麦も落語も同じと、未だに落語を聞く姿勢は変わりません。

2011年12月04日

シネマ(72)黄色いリボン・・・1

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ここ数十年新作の本格西部劇映画を見てなく、寂しいかぎりでした。

これぞ西部劇ッてのは、1985年のローレンス・カスダン監督の『シルバラード』以来見ていません。

ならば古典で一級品をと引っ張り出してきて見たのがこの作品。

決闘場面もドンパチ騒がしい場面もありませんが、心に染みる名画でした。

2011年12月05日

シネマ(72)黄色いリボン・・・2

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映画の神様 ジョン・フォード監督作品 脚本フランク・S・ニュージェント、 ローレンス・ストーリングズ 撮影ウィントン・ホーク、 この作品の前後に作られた「アパッチ砦」、「リオ・グランデの砦」で騎兵隊三部作と呼ばれています。1949年製作・アメリカ

2011年12月06日

回復期リハビリ訓練・18  転倒防止イメージトレーニング

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リハビリ病院の入院生活に慣れた頃、看護師に無断で、ベッド脇に立ってパジャマに着替えていた時に尻餅を着いて大騒動(?)になった事がありました。

何故?左足が勝手に右側へ滑って行ったのか不思議でしたが、その答が理学療法の階段を降りる訓練で分かりました。

階段の上から下を見下ろして、唯一自由になる右手が杖で塞がれ、いざ降りるとなると結構恐怖を感じます。

自分では緊張しないよう頭で考えていても、体は正直に反応するもので、左足が絵のように右に、足先も内側へ回ってしまいます。

訓練士のI先生はもっと足幅を広くして降りるよう指示しますが、頭は指示しても体は反応してくれません。

現在もこの症状が顕著で、緊張した時や小用を我慢して歩いてトイレに向かう時など、左足が右足前で跳ね上がってしまいます。

半身麻痺を抱えた患者には、階段を降りることはおおごとで、転倒の恐怖を常に感じてしまいます。これはそう簡単には解決できません。

常に転倒しないよう自分の体に覚え込ませるほか方法はないようです。

転倒といえば、I先生が休みの時のY先生の助言が今でも役に立っています。

右ページのメモ描きの髭の人物で職人肌と身受けました。見習い生が数日で逃げ出してしまう事で評判でしたが、訓練生の教わる時の姿勢がいい加減でいたり、勉強不足の大甘のほうに問題があったと思っています。

この間違った評判で、患者のなかにはY先生の訓練を怖がっていたむくつけき親爺たちがちらほらいました。

私が教わっていた時は一週間耐え抜いた訓練生が居て、「君はもう、何処へ行っても充分務まる!」と、賞賛の嵐の若者もいたんですね。

このY先生の今でも心に焼き付いている助言は、

「足裏で大地を掴むように歩いて」でした。

お陰さまで現在も転倒を免れており、感謝しています。

2011年12月07日

(63) 行きつ戻りつ

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現在の私の状態を端的に表していた習作時代の絵がありました。調子が良くなってきたと思っていたら、急激に後戻り。夏場に良くなりかけて来たなと思っていても、冬が来てまた退院したときのような・・・・。季節ごとダイレクトに症状が変化し、一日の時間の移り変わりにも同じように調子が変わります。良くなったり悪くなったり、行きつ戻りつなんですね。こんな自分の症状を不謹慎にもどこかで楽しんでいる自分もいて、ビックリシます。そのうちいくらかは治るでしょ。

2011年12月08日

回復期リハビリ訓練・19 人は見かけに

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どうも私の粗忽は本物だったようで、入院中トイレなどで車椅子から離れる時に、サイドブレーキのかけ忘れを度々してしまい、転倒の危険ありということで、情けないことに退院まで車椅子から自由に離れる許可を病院側からもらえませんでした。

しかし、世の中は広いモノで私より上手の方たちがいました。

入院患者のなかには車椅子の背もたれに、VHSテープを二回りほど小さくした黒い箱と背中の服に留められたコードで繋げられた人がいて、その頃まだ居たシバさんに聞いたところ、これは看護師に無断で車椅子から離れた人の、度々の忠告を無視したペナルティーで、無断で車椅子から離れるとナースセンターに繋がっていて、即座に看護師が飛んでくるセンサーとのこと。(右ページ赤い矢印)

入院中親しくしてもらったワタリさんグループの一人に楚々とした深窓の奥様風の女性がいて、なんとこれがこの人に着けられていました。

夜中にトイレに行く度にいちいち看護師を呼び出すのが心苦しい思いから勝手に自由行動をとってしまったからとのこと。しかしその女性と大胆な行動のギャップに信じられない思いが未だにしています。

2011年12月09日

(64) けつまずく

ohhh.jpg 1997年まで彩色は色鉛筆を主に使っていました。この頃の前後から画材がカラーインクに替わっていきました。色鉛筆で彩色するってのは結構体力勝負だったので、画材を替えていったんですね。ズルイなぁ。

 

2011年12月10日

回復期リハビリ訓練・20  入院生活つづき

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6月に入ると、同室のシロセ君の一泊二日の一時帰宅が何度かあり、そろそろ退院の日が近いことを知らされます。

病院の入院期間はおよそ三ヶ月。

シロセ君のように若い人は一緒に生活していると、回復が早いことも素人目に分かります。もっとも彼は頭部外傷の方で、脳にダメージは負ったものの、我々のような脳出血や脳梗塞ではないので、回復の速度が違っているのかも分かりません。

入院当初線の細かった体型が、一時帰宅する度に、見る間に逞しく腹もポッコリ膨らんできたので、家に帰った感想を聞くと、一歩家から外へ出ると車や人の歩くテンポがもの凄く速く感じられて、最初のうちは外出が怖く感じるとのこと。

また、自宅近くのラーメン屋で爆食いして、日頃の病院食から解放されてタップリコッテリの油を体に仕込んで満足して戻ってきたことが伝わります。

リハビリ訓練にも慣れたある日、私が消灯時間にベッドの周りのカーテンを閉め、天井の明かりだけでこっそり本を読んでいると、当直の看護師が突然カーテンから顔を出し、本当に寝ているか狸寝入りかは気配で分かると注意されてしまいました。

看護師恐るべし。

2011年12月11日

(65) 安楽死

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私の職業の出発点はブラック・ユーモアの一枚マンガでした。

世の中が今のように多様化してくると、すべてブラック・ユーモアに囲まれているようなもので、生活して行けるハズもなく考えを変えなければ生きていけません。

それでも40年ほど前までは世の中に余裕があったのか、ブラック・ユーモア全盛といえないまでも結構目にしました。

生活出来ないと分かっていても一枚マンガからは離れる事が出来ず、暇が出来て気が向いた時はごくたまに孤島マンガを描いていました。そのうちの一枚が上の絵です。

フリーランスの出だしに、幸運にも小説月刊誌で初めて連載を貰ったとき、最初の一歩がブラック・ユーモアの一枚マンガ、『拒否する孤島』でした。

言葉の遊びで孤島に行く時に、何かひとつだけ孤島に持っていってもいいと言われたら、あなたなら何を持って行きますか?と、話題が振られたら私は躊躇なく(鉈)か(手斧)と答えます。

欲をいうと、ボゥイーナイフのような鉈が。

百科事典?・・・とんでもない!一枚マンガのアイデアの出だしには役に立つかもしれませんが、二ヶ月しないうちに餓死かも知れません。

2011年12月13日

(66) 謎の釣り

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こういった軽めのマンガはタイトルなんか付けない方がいいんですが・・・。

(67)粗忽者

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私の甥の一人が小学生低学年だった頃、登校中に富士山が見事だったので見とれて電柱にぶつかったというエピソードを持っています。間違いなく私の甥だ!と思いましたね。

2011年12月14日

回復期リハビリ訓練・21 地雷の存在

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シロセ君の退院がほぼ決まりかけた頃、今度は私のベッドの横にいたテラ氏の一時帰宅が始まりました。この二人とは入室がほぼ同時でしたが、三ヶ月を待たずに退院していきました。

この病院に入院したとき、頭部検査の他に体全体の精密検査があって、テラ氏は脳出血の他、頭部動脈瘤の小さい瘤が三カ所、他に糖尿も見つかったそうで、55歳の年齢で、若い奥さんと幼稚園児を筆頭に三人の男の子の今後を考えると、かなりナーバスになっていたと思います。

なにやら夢中になって雑誌を読んでいるテラ氏に無断でスケッチをしていた時、涙を流している場面を度々目撃しましたし、皆と世間話の途中で突然脈略無しにテラ氏が泣き出すことがあって、必死になだめた事もありました。

同じ病気とはいえ、当時は感情失禁なんて言葉すら知りませんでしたし、脳の壊れた部位によって人によってはこんな症状を起こすんですね。

退院直前だったシバさんは入院中に見てきた患者さんたちの面白いエピソードを語ってくれて、この症状も知ってはいたと思いますが、身近に現れたのは予想外だったようでかなりの拒否反応を私に示していました。私も同じくでしたよ。

しかし今後闘病生活を一緒にしていかなければならないので、話題選びにこれでも結構気を遣ったことを覚えています。

上のスケッチはムードメーカーのシロセ君です。念のため。

2011年12月15日

回復期リハビリ訓練・22 危険区域

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入院当初は私の隣のベッドということもあり、テラ氏とは自然と会話が生まれ、リハビリの情報交換など、円滑な交流だったと思います。

PTやOTの訓練時間が同じ時は一緒に行っていたのですが、テラ氏の人となりがある程度分かり、円満な交流が順調に始まったある日、エレベーターに先に乗り込んだテラ氏が突然、私の横にこびとの私が居ると言いだしました。

同じ動作でそっくりのもう一人の私が眼の隅で見えたと気味の悪いことを言いだしたので、軽く打ち消すように冗談事のようにしたのがテラ氏の感情を害したようで、後で考えるとシコリになっていたのかも知れません。今となっては藪の中ですが。

 

2011年12月16日

回復期リハビリ訓練・23 危険地帯に近づく

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病院に入院して二ヶ月も過ぎる頃は、顔見知りも出来、人との交流の輪が自然と広がり、自分の症状のある程度が予想できます。

また、この頃はシバさん、ワタリさんという私が大変世話になった人たちがすでに退院していました。

脳卒中の場合突然の退院はありません。その前に自立して生活するためのお試し期間が数回あります。

この一時帰宅の最初は、患者と家族、患者担当の作業・理学療法士とホームヘルパー三人が、患者の自宅へ行き、日常生活の介助(玄関や廊下、階段、風呂場、トイレなどの必要な箇所に取り付ける手すりなど)の相談と、区や市に申請する為の手続きなど準備があります。

この一時帰宅が決まると、同室の人たちに遠慮?して分からないように帰宅する患者が殆どで、でも、分かってしまうんですね。妙にウキウキと日頃見たことがない歓びが体から溢れて、漏れてしまっているんですね。

同室だったテラ氏が昼時に一時帰宅から戻ってきて、食堂で隣に座ったテラ氏に、帰宅した様子を聞いてみたところ、自宅兼店舗の生活の場である二階から唯一ある外階段の上り下りが危なっかしくて怖かったこと。

また、散歩を試したところ、坂道や道路の段差、砂利道などで転倒の恐怖が常に付きまとうこと、カミさんがテラ氏の体を労らないで子供たちと先に歩いて行ってしまった不満。

周りの人や車がフィルムの早回しを見ているように速かったことなど、退院後の不安を感じさせてくれました。

上の絵は食堂です。席は同じ病室の人たちと一緒の席と決まっているわけではなく、シロセ君、カボチャ親爺は別の席で、テラ氏だけが私の隣の席でした。

2011年12月17日

回復期リハビリ訓練・24 地雷を踏む

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私には理学療法の訓練中は、よそ見する余裕などありませんでしたが、訓練も回数を重ねるごとに慣れて日を重ねると、顔見知りの患者のダメージが素人目におよそどの程度か分かってきます。

同室のテラ氏の歩きは補助装具を必要としなかったし、歩きの回復は目に見えて上達してるように身請け、床に座って自力で立ち上がれてもいたし、主治医から訓練時間外に廊下での自主歩行の許可が早々に出たくらいだったので、その帰宅後の不安は考えすぎじゃないかと思って、自宅に戻ればすぐに以前の生活ができるよと、軽く言ったところ、テラ氏の感情の堰が切れたようで、突然怒りに点火して大爆発!私はその爆風をモロに受けてしまいました。

迂闊にも6月に入ってテラ氏の感情失禁が途切れていたので、忘れていたんですね。

食事中の周りの人たちはテラ氏が何を怒って居るのか見当が付かず見事に目がテン。私は唖然呆然何が何やら分かりませず、テラ氏の退院まで爆弾を抱えるような気まずい日々が続いてしまいました。

この大爆発も現在思い返してみるに、医者でもないのに分かったような、と受け取られかねない言葉にあったのかも知れません。

この日を境にテラ氏のお守りに廻されていた私の厄介な役回りは無くなったんですが、迂闊なナグサメ言葉は危険を孕むってのを肝に銘じましたよ。クワバラ、クワバラ。

2011年12月18日

シネマ(73)オズの魔法使い・・・1

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アメリカ映画史100選で、たしかこの映画はトップ10には入っていたと思います。

十数年ごとにテレビで見る機会があり、見る度にこの映画の(説明できない何か)に引っかかりを感じて、心の底から楽しむことが出来ない不思議なファンタジー映画です。第一級作品に間違いはないと思うんですが。

2011年12月19日

シネマ(73)オズの魔法使い・・・2

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この映画の導入部と終わりはモノクロで、オズの国に行くところから現実に戻る迄がカラーだったので、 いかにも映画創世記頃の作品といった感がありました。

で、この場面は映画ではモノクロのシーンでした。

2011年12月20日

シネマ(73)オズの魔法使い・・・3

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監督 ヴィクター・フレミング、脚本ノエル・ラングレー、フローレンス・ライアン、エドガー・アラン・ウルフ、撮影ハロルド・ロッソン。1939年製作 アメリカ

監督のヴィクター・フレミングは同じ年に「風と共に去りぬ」もメガホンをとっていたんですね。

2011年12月21日

(68) レッツ・ゴー・ドン〈1〉

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日刊ではありませんでしたが、初めての新聞連載マンガです。掲載は通常の新聞マンガと同じ縦組みでした。

冠婚葬祭タイムス19号の、昭和58年5月から約二年間にわたって発表。我が家で最初に飼った柴犬ケンゴをモデルに活躍してもらいました。

2011年12月22日

(69) 一方通行

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毎年、年末になると有名人の訃報記事がイヤでも目に飛び込んできます。

昨日も映画の森田芳光監督が61歳で彼岸に行ったニュースが。まだご当人としてはやり残している事があったように伝えられています。

一方通行の道を急いで行った訳ではないでしょうが、自分の中にある全部を出し切って旅立てれば、幸せでしょうね。・・・・・運が良ければの話ですが・・・。

還暦過ぎて自分の足下を見るに、残りの時間と思うか、これからの時間と考えるかは、自分次第で変わる!と、ものの本にあります。・・・・理屈では分かりますが・・・、ま、難しく考えないで、これからの時間の方で私は行きたいと思とります。

2011年12月23日

回復期リハビリ訓練・25 退院の1

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シロセ君が退院した後、程なくして若い奥さんに付き添われてテラ氏も退院。

帰宅直前に、何も事情を知らない(と感じました)テラ氏の奥さんにせっつかれたんでしょう、OT訓練中の私のところへ、うんざりした顔のテラ氏と奥さんの二人で退院の挨拶に現れ、「もう、全て女房の言いなりですよ」という言葉を残して艶福家テラ氏が帰って行きました。ホッ。

上のスケッチは自分のベッドで書き取り勉強中のシロセ君。

2011年12月24日

(67) レッツ・ゴー・ドン〈2〉

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この新聞マンガの設定は、愛犬と一緒の生活に憧れていた頃でしたので、すんなりと決まりました。

 

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2011年12月25日

回復期リハビリ訓練・26 退院の2

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梅雨まっただ中の四人部屋は、私とカボチャ親爺の二人だけの静かな入院生活になり、後から誰が入ってくるのか、お互いの話題はこのことだけで会話が続きません。

脳卒中の発症が頻繁になる時期は12月から2月迄が圧倒的に多く、四人部屋は私が退院するまで、結局誰も入ってきませんでした。

 

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2011年12月26日

(68) レッツ・ゴー・ドン〈3〉

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本格的な寒波到来の今日は、犬の散歩にも最適の天気となりました。

私も愛犬と散歩が出来ていれば着脹れのこんな格好で、カミさんの「私も笑われるじゃないのッ」という声を背に田んぼ道に向かったでしょうね。

2011年12月27日

シネマ(74)雨に唄えば・・・1

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今年の(夢のシネマ)の締めくくりはジーン・ケリー、デビー・レイノルズ、ドナルド・オコーナーの三人が主演の第一級作品ミュージカル。

この場面も何度見ても飽きずに魅せられるシーンです。

2011年12月28日

シネマ(74)雨に唄えば・・・2

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劇中「Make Em Laugh」をアクロバティックな踊りと唄で魅せるシーン。ドナルド・オコーナーの一人舞台でした。

シネマ(74)雨に唄えば・・・3

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共同監督ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン。脚本も共同で、アドルフ・グリーン、ベティ・カムデン。撮影は「オズの魔法使い」(1939)「エル・ドラド」(1966)のハロルド・ロッソン。

2011年12月30日

(69) レッツ・ゴー・ドン〈4〉

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