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2012年01月 アーカイブ

2012年01月01日

2012年の年賀状

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日本の正月風景もだいぶ様変わりしてきましたね。

こういう絵のような正月を迎える家族は今、日本でどのくらいあるのか分かりませんが、無くなって欲しくない情景であるのは確かです。

幸先のいいことに、今年は富士山の頂上からの初日の出を、目覚め一番に拝むことができました。・・・テレビでですがね。

2012年01月02日

こども英語図鑑・アクション

action.jpg 「21世紀こども英語館」(小学館)収録の行動のページ。

おもちゃ箱をひっくり返したようなイメージで描いたもの。

2012年01月03日

こども英語図鑑・天気

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昔々に見たディズニーの実写映画や、ディズニー・ランドの俯瞰図などに見た漫風イラストをイメージして描いたものです。

2012年01月04日

(70) レッツ・ゴー・ドン〈5〉

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新年おめでとうございます。

今年は例年より仕事始めが早く始まると聞きました。

年頭に当たって例年と同じく無理せず自然体で病後の体や仕事に、そして趣味に向き合っていくつもりです。

本年も宜しくお願いいたします。

2012年01月05日

(71) 拒否する孤島・・・1

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長女が生まれたばかりで、証券会社でアルバイト生活の頃の、投稿作品第一号です

実質ここからが出発でした。

20数点描いたんですが、掲載は月を跨いで3点のみ。月刊小説宝石でした。

本当に運が良かったとのと、心底ホッとしました。

2012年01月06日

(72) 拒否する孤島・・・2

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現在の証券会社は、モニタで株の流れが瞬時に分かりますが、以前の証券会社でのアルバイトに、ラジオから流れてくる午前と午後の株式市況を直接黒板に書き留めていく仕事がありました。

600以上ある一部上場企業の銘柄が付いている黒板は、約6ー7メートル幅で高さ1メートル弱の台の上にあり、チョークで株価の上下を瞬時に修正していかなければならず、午前と午後たっぷり二時間縦横に動く体力と、技術が必要でした。

素早い動きなど縁遠い運動神経皆無の自分でも、崖っぷち生活だからこそ出来たんでしょうね。

2012年01月07日

回復期リハビリ訓練・27 退院の3

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一時帰宅が許された7月初旬は、まだ自分の症状が冷静に理解出来ていなかった頃で、結構楽天的に自分を見ていました。

退院後の自宅改造相談で、風呂場とトイレは手すりが必要なのは納得出来ましたが、風呂場の転倒を危ぶんだ看護師やケア・マネージャーさんたちベテラン指導者の勧めで、風呂場の浴槽内に椅子と滑り止めマットを、湯船に浸かるときだけ使うことになり、簀の子は滑りやすく危険ということで使わないことになりました。

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2012年01月08日

シネマ(75)赤い風船・・・1

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退院後の第一作目の〈夢のシネマ〉は、ベッドにいるときにこの作品と決めていたものです。

無事生還して天下一品の名作を描けたことに感慨無量でした。

幸運(強運)だったことにも八方感謝しています。

2012年01月09日

シネマ(75)赤い風船・・・2

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この映画は小学校時代に、先生に引率されて近くの映画館か小学校の講堂のどちらかで見た記憶が、曖昧ですが残っています。

上からの押しつけにはどんなにいい物でも拒否反応が出てしまう私だったので(・・・だった?)、当時見た「赤い風船」の印象は退屈以外のなにものでもありませんでした。

生来のへそ曲がりってのは、随分と無駄に損をしてしまいます。

シネマ(75)赤い風船・・・3

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監督と脚本はシネマ(6)でも描いた「素晴らしい風船旅行」のアルベール・ラモリス(1922ー1970)。

この時の熱気球に乗っていた少年と、「赤い風船」の主人公の少年はラモリス監督の息子とのこと。

撮影、エドモン・セシャン。制作1956年 フランス。

この監督のもう一つの長編映画「フィフィ大空を行く」(1965)も小粋なファンタジー映画でした。

2012年01月11日

(73) 拒否する孤島・・・3

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子供が生まれては、いつまでも夢を追ってはいられません。

覚悟を決めて水道橋にある工業系の小さなデザイン会社に就職することになりました。

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回復期リハビリ訓練・28 退院の4

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一時帰宅の数日後、本格的な退院の手続きがあります。

それは栄養士にカミさんと一緒に食堂に呼ばれて、自宅での食事指導でいよいよ退院の実感が湧いてきます。

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2012年01月12日

(74)  狐と狸

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投稿作品の掲載の通知と一緒に、連載の電話を月刊小説宝石編集部から頂いてから描いた第一作目の作品です。

毎月1ページですが大変な幸運が舞い込んできたものです。

この日からアルバイトと一枚漫画家の二足のわらじ生活が始まりました。

1970年代半ばの頃です。

2012年01月14日

(75) レッツ・ゴー・ドン〈6〉

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2012年01月16日

(76)  受難の世代・・・1

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(77)  受難の世代・・・2

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2012年01月18日

(78)  受難の世代・・・3

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(79)  受難の世代・・・4

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(80)受難の世代・・・5

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2012年01月19日

回復期リハビリ訓練・29 退院してから

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退院後、10日ほどしてから浦和駅西口に当時あったユザワヤへ、買い物がてら自分の病後の現状を知るため出発。

我が家から最寄りの駅まで今まで普通に歩いて10分弱だったのが、約30分も。切符を買って反対側にあるホームに向かったところ、目の前で乗る予定だった電車が出てしまい、のっけから現実を突きつけられました。

幸い大宮駅川越線ホームはエレベーターがあり、構内の東北線ホームのエスカレーターもクリア。エスカレーターは病後初めての経験で、リハビリ訓練に無かったんですが無自覚な性格が幸いして無事セーフでした。

電車で初めて席を譲ってもらって助かったのは良いんですが、席から立つという単純な動作が、自分で思っていた以上に脚力が低下していたため停車して浦和駅ホームに移るまで、タイミングが取れず苦戦。また浦和駅構内は駅外へ出るまで階段に次ぐ階段でこれも苦戦。せっかちな性格を封印してゆっくりのんびり移動でこれもようやくクリア。

ユザワヤは一階にある画材を見て回り、油性ペンや篆刻の石を(左手が麻痺なのに・・・バカだねぇ)数点購買。ところで、ここはあと一月で、東口パルコへ移転のため閉店とのこと。お気に入りの店がまた一つ消えてしまい残念。

病院でテラ氏の奥さんに教えてもらったユザワヤ近くのオススメの喫茶店へ移動してたっぷり休憩。これも5・6分で行ける距離を約20分。

帰りも休み休みでしたが目標のひとつだった長旅が無事無傷で帰宅でした。

現実は辛いモノでしたが、なにより歩いて移動出来たというのが、辛さより大きい歓びでした。が、介護の為と称して一方的に同行を言い張ったカミさんが、私の周りをうろちょろして、こちとら気が散って歩きに集中出来ず、歩きずらかったのなんのったらありませんでした。

2012年01月21日

(81) レッツ・ゴー・ドン〈7〉

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2012年01月22日

シネマ(76)飛べ!フェニックス・・・1

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灼熱の砂漠に不時着して片麻痺エンジン(?)になった双発飛行機を改造して、砂漠から脱出するまでのこの映画も、入院中に描いてみたかった映画のひとつでした。

2012年01月24日

シネマ(76)飛べ!フェニックス・・・2

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砂嵐に巻き込まれる双発貨物機。

シネマ(76)飛べ!フェニックス・・・3

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飛行機マニアには見逃せない映画のひとつでした。この絵は近くを通りかかった少人数のアラブ兵士のもとへ、救助を頼みに行った乗客二人の生存の安否を知るシーン。

シネマ(76)飛べ!フェニックス・・・4

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監督は「ヴェラクルス(1954)」、「何がジェーンに起こったか(1662)」のロバート・オルドリッチ、脚本 ルーカス・ヘラー、撮影 ジョセフ・バイロック。1965年製作 アメリカ。

2012年01月26日

(82) 鬱憤

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2012年01月27日

(83)  受難の世代・・・5

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毎月3ー4点描いたものを、編集部の方でセレクトして月一点掲載。この頃は本郷三丁目駅近くの小さなデザイン会社に通勤していたので、こういった環境から出たアイデアが多かったんですね。

2012年01月28日

(84)  アイデア商品

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(前回の続き)小さな(社員3人の)工業系デザイン会社で二ヶ月も過ぎた頃(だったか)、突然カミさんから仕事中の私に電話がきて、ハクホウドウという所から電話があって、連絡して欲しい旨の緊急連絡でした。

折り返し電話を入れると、私の漫画を企業広告で使いたいとのことで、願ってもない話でした。

当時の私は社会人として勿論半人前で、企業広告など知識ゼロでしたので何の知識もなく、ハクホウドウの名前は何処ぞの老舗和菓子屋か漢方の店かと勘違いしたくらいでした。

2012年01月29日

(85)  企業広告の一枚漫画・・・1

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(続き)月刊小説誌で連載でも、一枚漫画では依然食べていける見通しは立ちません。

そのための会社員生活でしたが、ある日突然、企業広告と組ませてもらえる幸運が(奇跡ですね)掴めたようでした。

その第一歩は1978年3月号の日経エレクトロニクス誌からの始まりでした。

2012年01月30日

(86)  後悔

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今までの一枚漫画から、1978年の春からの連載(この作品から)は徐々に肩の力が抜けた作品になってきたように思えます。

(続き)一枚漫画で生き残りの道が見つかった幸運のバランスを取るかのような難題が持ち上がりました。

正社員のアルバイトは認めないが、するなら副収入の50%を会社に入れなさいと訳の分からないことを言う社長に、在籍か退職の二者択一を迫られてしまいました。

2012年01月31日

(87)  企業広告の一枚漫画・・・2

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(続き)まだ半人前の社員に、会社側では給料を投資している期間にアルバイトなんざトンデモネェ!ってのが当たり前の判断です。

常識では理解できても現実は乳飲み子のミルク代・生活費雑費税金等々ぎりぎりの貧乏生活。「これ以上の年貢はご勘弁くだせぇ、お代官様ァ」と私。カミさんは勿論大反対でしたが何とか説得して、それ以外はすったもんだは無く円満退職。

翌日からは薪ざっぽ背負って火をつけられたごとく、出版社廻りの日々明け暮れでした。

上の絵は二作目、フリーランスになった記念すべき第一作目作品です。

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