2012年の年賀状
日本の正月風景もだいぶ様変わりしてきましたね。
こういう絵のような正月を迎える家族は今、日本でどのくらいあるのか分かりませんが、無くなって欲しくない情景であるのは確かです。
幸先のいいことに、今年は富士山の頂上からの初日の出を、目覚め一番に拝むことができました。・・・テレビでですがね。
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日本の正月風景もだいぶ様変わりしてきましたね。
こういう絵のような正月を迎える家族は今、日本でどのくらいあるのか分かりませんが、無くなって欲しくない情景であるのは確かです。
幸先のいいことに、今年は富士山の頂上からの初日の出を、目覚め一番に拝むことができました。・・・テレビでですがね。
新年おめでとうございます。
今年は例年より仕事始めが早く始まると聞きました。
年頭に当たって例年と同じく無理せず自然体で病後の体や仕事に、そして趣味に向き合っていくつもりです。
本年も宜しくお願いいたします。
長女が生まれたばかりで、証券会社でアルバイト生活の頃の、投稿作品第一号です
実質ここからが出発でした。
20数点描いたんですが、掲載は月を跨いで3点のみ。月刊小説宝石でした。
本当に運が良かったとのと、心底ホッとしました。
現在の証券会社は、モニタで株の流れが瞬時に分かりますが、以前の証券会社でのアルバイトに、ラジオから流れてくる午前と午後の株式市況を直接黒板に書き留めていく仕事がありました。
600以上ある一部上場企業の銘柄が付いている黒板は、約6ー7メートル幅で高さ1メートル弱の台の上にあり、チョークで株価の上下を瞬時に修正していかなければならず、午前と午後たっぷり二時間縦横に動く体力と、技術が必要でした。
素早い動きなど縁遠い運動神経皆無の自分でも、崖っぷち生活だからこそ出来たんでしょうね。
一時帰宅が許された7月初旬は、まだ自分の症状が冷静に理解出来ていなかった頃で、結構楽天的に自分を見ていました。
退院後の自宅改造相談で、風呂場とトイレは手すりが必要なのは納得出来ましたが、風呂場の転倒を危ぶんだ看護師やケア・マネージャーさんたちベテラン指導者の勧めで、風呂場の浴槽内に椅子と滑り止めマットを、湯船に浸かるときだけ使うことになり、簀の子は滑りやすく危険ということで使わないことになりました。
この映画は小学校時代に、先生に引率されて近くの映画館か小学校の講堂のどちらかで見た記憶が、曖昧ですが残っています。
上からの押しつけにはどんなにいい物でも拒否反応が出てしまう私だったので(・・・だった?)、当時見た「赤い風船」の印象は退屈以外のなにものでもありませんでした。
生来のへそ曲がりってのは、随分と無駄に損をしてしまいます。
子供が生まれては、いつまでも夢を追ってはいられません。
覚悟を決めて水道橋にある工業系の小さなデザイン会社に就職することになりました。
一時帰宅の数日後、本格的な退院の手続きがあります。
それは栄養士にカミさんと一緒に食堂に呼ばれて、自宅での食事指導でいよいよ退院の実感が湧いてきます。
退院後、10日ほどしてから浦和駅西口に当時あったユザワヤへ、買い物がてら自分の病後の現状を知るため出発。
我が家から最寄りの駅まで今まで普通に歩いて10分弱だったのが、約30分も。切符を買って反対側にあるホームに向かったところ、目の前で乗る予定だった電車が出てしまい、のっけから現実を突きつけられました。
幸い大宮駅川越線ホームはエレベーターがあり、構内の東北線ホームのエスカレーターもクリア。エスカレーターは病後初めての経験で、リハビリ訓練に無かったんですが無自覚な性格が幸いして無事セーフでした。
電車で初めて席を譲ってもらって助かったのは良いんですが、席から立つという単純な動作が、自分で思っていた以上に脚力が低下していたため停車して浦和駅ホームに移るまで、タイミングが取れず苦戦。また浦和駅構内は駅外へ出るまで階段に次ぐ階段でこれも苦戦。せっかちな性格を封印してゆっくりのんびり移動でこれもようやくクリア。
ユザワヤは一階にある画材を見て回り、油性ペンや篆刻の石を(左手が麻痺なのに・・・バカだねぇ)数点購買。ところで、ここはあと一月で、東口パルコへ移転のため閉店とのこと。お気に入りの店がまた一つ消えてしまい残念。
病院でテラ氏の奥さんに教えてもらったユザワヤ近くのオススメの喫茶店へ移動してたっぷり休憩。これも5・6分で行ける距離を約20分。
帰りも休み休みでしたが目標のひとつだった長旅が無事無傷で帰宅でした。
現実は辛いモノでしたが、なにより歩いて移動出来たというのが、辛さより大きい歓びでした。が、介護の為と称して一方的に同行を言い張ったカミさんが、私の周りをうろちょろして、こちとら気が散って歩きに集中出来ず、歩きずらかったのなんのったらありませんでした。
砂嵐に巻き込まれる双発貨物機。
飛行機マニアには見逃せない映画のひとつでした。この絵は近くを通りかかった少人数のアラブ兵士のもとへ、救助を頼みに行った乗客二人の生存の安否を知るシーン。
毎月3ー4点描いたものを、編集部の方でセレクトして月一点掲載。この頃は本郷三丁目駅近くの小さなデザイン会社に通勤していたので、こういった環境から出たアイデアが多かったんですね。
(前回の続き)小さな(社員3人の)工業系デザイン会社で二ヶ月も過ぎた頃(だったか)、突然カミさんから仕事中の私に電話がきて、ハクホウドウという所から電話があって、連絡して欲しい旨の緊急連絡でした。
折り返し電話を入れると、私の漫画を企業広告で使いたいとのことで、願ってもない話でした。
当時の私は社会人として勿論半人前で、企業広告など知識ゼロでしたので何の知識もなく、ハクホウドウの名前は何処ぞの老舗和菓子屋か漢方の店かと勘違いしたくらいでした。