(110) 格安ゴルフプレー
月刊小説宝石に連載中に、月刊小説推理から声がかかって描いた二点で、1979年頃だったと思います。
ペンネーム無断で替えられてしまいました。
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月刊小説宝石に連載中に、月刊小説推理から声がかかって描いた二点で、1979年頃だったと思います。
ペンネーム無断で替えられてしまいました。
一昨年の夏に、脳出血から生還して退院した時、どういう訳か半蔵も同じように不自由な歩行をするようになっていた。
前足もx脚になっていたが、日に日に回復したように見え、不自由ながらも元気になると、私の歩く先々に半蔵が現れて歩行の邪魔をするように目の前で横になるという、私専属のリハビリ訓練士にでもなったような日が始まった。
いかにも「踏めるもんなら、踏んで見ろ!」といった目を向け、これみよがしな態度ですが、これが家の中での歩行訓練に大いに役立ち、上がらない左足を努めて挙げて歩き、ほんの数ミリの段差や左装具底のひっかかりには転ばないようになったのが成果でした。
一度だけ若干の失敗はありました。
台所でコーヒーを入れていた時、いつの間にか現れた半蔵のしっぽをうっかり右足の土踏まずで踏んでしまい、「痛ェじゃねぇかッ」ってな大声で叫ばれ、幸いにも(?)私の足裏は人より土踏まずが深いドーム状になっているので、怪我をするほどではなく冷や汗程度のケアレスミスでした。
プライドが高かった半蔵が、一階日本間のソファーも自力では上がれないほど脚力は衰え、二階に上がる時は家内を呼び、抱き上げてもらって自分の居場所である長男の部屋に行くまでになった半蔵を見て、覚悟しなければならない日が近いことを実感した。
日中は家内と私が居る一階で寝るようになり、夜は今年2月に長男の枕元で小水して叱られてから玄関で寝るようになっていた。寒さ対策とトイレは、暖房具を床に引き給水シートを家内が設えて、三和土に降りて小用を済ませていた。
しかし、夜中に三和土で小用あと、上がり框の30センチ強の段差が上れず、一階玄関前の部屋で寝ている私を呼ぶことが度々で、真夜中にそれも寒中布団から出て装具を付け、玄関三和土までの動作はかなりしんどい作業だった。
デラックスプレイボーイのカットを描いていた時期とそう変わらない頃の絵です。
意識して描き方を変えていたつもりはないですが、違いますね。
古巣のデザイン会社は本郷三丁目にあり、修正や追加イラストは会社での作業でした。
当時の思い出として、キャンディーズの引退コンサートが後楽園球場で行われ、坂の上にある会社まで野郎どもの矯正が聞こえ、苦笑しながらの作業をしたことがあります。
二つ折りA4版の大きさで、縦組みをブログ用に横組みに変更。
私の一番古い記憶に残っている映画が、ディズニーの実写でハーシェル・ドアティ監督「開拓者の血」とロバート・スティヴンスン監督の「四つの願い」というファミリー映画だった。
前者はキャロル・リンレイ、後者の映画にシーン・コンネリイという表記で後のジェームス・ボンド役のショーン・コネリーが新人で出演していました。
共に製作年不明。ですが一人で映画館に行き始めた頃の中学生だったので半世紀前頃の映画と思います。
時を経て世の中の様子が激変した今もファミリー映画健在を示してくれた映画でした。
この映画もCGは使われていたのかは分かりませんが、気にならない程度か、ごく控えめだったように思えます。
監督 ジョー・ジョンストン、脚本 エド・ナハ、トム・シュルマン、撮影 マイケル・スティーヴンソン。製作 1989年 アメリカ。
タイトルページ裏側に、
小説宝石誌に昭和51年11•12月号拒否する孤島、昭和52年一月号より特選漫画パレードに連載中、と薄く書き込みがあり、出版社持ち込み用に描いたもの。
他に、旧住所と電話番号、年齢(30才)と記してあり、持ち込み後、すぐに掲載してもらえるよう描いたつもりでしたが、ポッと出の新人が描いたブラックユーモアを受け入れる土壌はなかったようです。
5コマ目に、釣り人の後ろで岩の割れる音を付け足していれば、もっと効果的だったんですが、ね。
昔、リーダーズダイジェストってな月刊誌がありました。
私が一枚漫画に夢中だったまだ結婚前のこと、コラムの小タイトルに『安らかな死期を迎えるために』というコピーが目に飛び込んできて、処女作品集のタイトルは早々に決まりました。
以来ン十年、処女作品集は何処に行ったのやら。
更新している当人も、そろそろ飽きてきました。技術は一本調子。引き出しはカラッポ。
私が寄席の客だったら噺の途中だろうが黙って席を立ってロビーまで行って行ってしまうとことです。