愛犬ラッキー! №250 緑のカーテン
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言い訳は見苦しいので、常に自重するように控えています。
が、この猛暑と気圧変動で・・・・・。
何処の会社のテレビCMか分かりませんが、「帰りたーい、帰りたーい、あったかハイムが待っている」というフレーズが、「サボりたーい、サボりたーい、」と変化して聞こえ、このフレーズが頭の中で暴れ回っている。
適当にサボり、ダラダラと生活をしてはいるが、自分を誤魔化し騙しながら出来たのがこの試作品。
先日、友人からのメールで、垂直の回転から水平回転にスムーズに伝えるには笠歯車が良いと提案があり、後押しをしてくれたのか、鞭を入れられたのか分からないが結果感謝となりました。
残念ながらまだ笠歯車を自作する技術がないので、苦し紛れで作ったのが上左側の変形笠歯車・・・に、なるのかなぁ。
たしかに、今まで作っていた右側の平歯車だと、歪みや正確さに欠ける歯がひとつでもあると、垂直回転から水平回転までの間に引っかかりが出来てよろしくありません。
この試作歯車だと厚みがダメージになり、使う場所が限られてしまう、また、平歯車より制作時間もかかり、工夫もより多く必要となる。
それにしても、試作品だからといっても、もう少し丁寧につくらないといけませんね。
このところオートマタ作品の制作を理由に、館林にある実家の雑用を怠けていた。
一昨日の金曜日、館林は39.1度で全国一位の猛暑を記録していた。
緊急の用事も無かったが、高齢の親の様子を見に出かけた。
実家近く(でもないか)の市役所周辺は、樹齢数百年ほどの古木大木があるが、その他駅周辺や住宅街は緑が見事に無いといってもよく、半世紀前頃はうっそうとした樹木が多かったそうだ。
猛暑日でも館林市役所周辺だけは涼やかな空気が漂っている。
ところが、たくさんあった樹木がある日を境に一斉に切り倒されてしまったという。
緑一掃計画を実行し、陣頭指揮した人たち?は誰か、理由も分からないが、夏になると館林に行く度に腹が立ってならない。
約半月のインターバルの後、ようやく木工作業再開となります。
本業が片づいた後、毎日少しずつでも木工が出来れば申し分無いと、いつも思うのですが、一日に二種類の作業をすこしずつこなすことなど、今まで出来た試しがない。
ひとつのことに集中しなければ、意識があちこちに飛び回って、一日が無駄に終わり、共倒れになりかねません。
また、気力体力は以前と比べて情けないほど続かなくなってきている。
地道に今日からまた、腰を据え、設計の練り直し作業に入ります。
・・・・いつ頃完成出来ることやら。タメイキ。
今月初め、中学の同窓会の案内状が来ていた。
昔を懐かしむ気も、友人も居なかったので、返信しないうちずるずる日が経ち、先日幹事から電話をもらってしまった。
近況と今後も行けない事を説明し陳謝した。が、私の個人情報を伝えた記憶は無いはずなのに、どうやって住所と電話番号を知ったのか不気味です。
そういえば家内もここ数年、同窓会の話をとんと聞いていない。
聞くと同窓会の幹事を引き受ける人脈がばたばたと鬼籍に入ってしまったという。
もーそんな年齢なんですね。
そろそろどころか、今の内に身辺整理をしなければとは思っているんですが、私の場合(電動工具購入や作品作りで)逆行しているので、厄介者を自覚です。
ここ数日は秋の気配が感じられ、日中が大分過ごしやすくなってきた。
体的?にはもう少し温度が高いと有り難いが、これから動きづらくなる季節に向かうと思うと、ある種の覚悟を突きつけられる。
週二回のデイサービスで、和やかな笑顔と、とびきり陽気で人気を集めているフリップ・ノワレ氏の顔をここ二〜三ヶ月見ていない。
10数年前のゴルフプレー中に倒れ、その後数人の医者から、現代医学では直せない難病と告げられても、微塵も辛さを感じさせないノワレ氏の人柄は皆心服している。
仲良くさせて貰っているお仲間の女性数人から、ノワレ氏の情報を聞かれたが、当初から比べると、歩き方が徐々に難しくなってきているように見受けられ、氏に見合った環境に移られたのではと思ってしまう。
このデイサービスの創設が約7年、創設の半年後から通うようになって6年と少し。
徐々に静かに、今の環境から去っていった人たちの顔が思い出される。
人見知りの強い私を和らげて接してくれた人たちとの、別れが続いている。
ユーチューブには、規制はないのだろうか。
誹謗中傷閲覧注意のコーナーが勝手に割り込み、不愉快極まりない。
飛行機事故や、大型ハリケーン、巨大竜巻、ビル爆破など、若干過激な動画を見た後に入り込んでくるので、困っとります。
この汚い(誹謗中傷等不愉快)コーナーを即、ピンポイントで消去出来る方法は無いのでしょうか。
雑用を済ませるため、約半月ぶりに館林の実家に行ってきた。
私の幼児期の実家は館林では無いが、高校を出て蒲田で一人暮らしをしていた頃、母と仲の良かった七女家族と、当時館林にあった森永乳業工場の宿舎へ転勤した数年後に、館林に家を建てて約半世紀になる。
免許を返納して約10年経った母の口癖が「館林も随分廃れてきた」というもの。
人口の減少はなにも館林に限ったことでは無いが、 ベビーブーマーだった団塊の世代の現役は、数少なくなった職人だけとなった。
市内も歯が抜けたように空き地が目立つが、実家までの道路沿いを見た感じでは巨大モールや大型電気店などが次々建ち、リニューアルが進んでいるように思える。
だがしかし、市内の本屋、文房具店、模型店などの家はあっても看板だけが残っていて、個人商店が見事に無くなっているのが気になる。