愛犬ラッキー! №269 早とちり
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日本にプラモデルなる模型が、初めて売り出された頃からの模型ファンだった義兄が通っていたと思える、小さな模型店を見つけたことがあった。
7〜8年前頃のあやふやな記憶だったので、ある程度覚悟をして向かった。
その頃のその店は、看板の模型の文字が消えかかっていて、ガラス戸は閉められていたと記憶しているので、すでに2〜30年前には閉店していたと思う。
その店があった場所は、お気に入りの喫茶室までの一本道だったので、間違いなく覚えていたのだが、やはり消えていた。ばかりでなく更地になっていた。
帰路、もうひとつの目的だった小津安二郎の、映画に出てきそうな雰囲気の(写真正面右)家は、二階ガラス窓に写る室内まで、昭和の空気を漂わせて、昭和遺産を申請したくなるような、毎回家の前を通る度に感じる家です。
この交差点角で、右手の日本家屋をカメラに納めようと車を止めたが、タイミング悪く、後続車が次々止まり、車から降りる機会を逸してしまった。
親子三代の漆作家の作品集を貰った。
見終わって、心に残った作品は、明治生まれの作家だった。
現代作家は、一瞬目や気を引くが、記憶には残りません。
明治大正期に生まれた人は、時代環境が作家を育てるのか分からないが、 手に入れたくなる作品が多く、味わい深くて見飽きなかった。
BGMで聞く落語も同じで、昭和黄金期に活躍した三代目三遊亭金馬(1894〜1964)や、五代目古今亭志ん生(1890〜1973)、十代目馬生(1928〜1982)親子、三代目桂三木助(1902〜1961)や、昭和期最後の名人、三代目古今亭志ん朝(1938〜2001)など聞いて、荒んだ気持ちを癒してもらっている。
建築もやはり、明治大正期に作られたものは、風格が時間と共に 備わってきて、見飽きません。
『ぼくの採点表』というタイトルで、双葉十三郎さんが書いた映画紹介の本が愛読書だった時期がある。
私の結婚当初、証券会社でアルバイト時代に、「燃えよドラゴン」というブルース・リー主演の映画が随分と話題になり、その後ブルース・リー人気も落ち着き、忘れかけていた頃、テレビで再放送を見た後で、この『ぼくの採点表』を読んだことがあった。
{映画芸術派から見ればいわゆるゲテモノと軽蔑されるジャンルの一篇だが、おトソ気分で見るにはよろしい}、と一刀両断の紹介で、妙に納得した次第。
このクツの家を見ていたら、ブルース・リー映画のイメージと同じで、異質の文字が頭にこびり付いて離れません。
個性が強すぎる商店の脇に、ひっそりと二軒の小さな店が寄り添い、閉店して随分経つようです。
左側の白い看板は、文房具の文字が微かに残っているが、右側の錆だらけの看板には、何の文字が書かれていたのか判別出来ません。約15日に一度は、実家の雑用でこの地に来るが、この店の前の道は、たまに通るという程度でした。
人通りが殆ど無く、変化に乏しい所ですが、以前(5〜8年?程だったか)になるが、たった一度だけ、看板の文具の文字が消えかかっているこの店が、開いていたことがあった。
車で走っていた時なので一瞬だったが、目の隅に円形の小さな棚にノートが入れてあり、室内は真っ暗で、日光に当たったこの棚が強く浮き出て見えていたのが、脳に焼き付いている。
記憶違い?とも、錯覚か?とも言われれば、いやっ、確かに見た!といえるが・・・今となっては、信じてはもらえないかも知れません。
店舗入り口のガラス戸、鴨居のガラス窓、コカコーラの看板、おまけに二階物干し台等、昭和期には日本全国にも存在していて、定番の店舗風景でした。
店の側面に【オリエンタル即席カレー】、【カルピス】、【ヤマサ醤油】、【キッコーマン】、【ブルドックソース】、【サッポロビール】等の看板があれば完璧だった。
現在はこの手のコレクターが多いのか、ここ館林には琺瑯看板など、何処にも見かけなくなりました。
松山容子CMの【大塚のボンカレー】、由美かおる横座りポーズの蚊取り線香【アース渦巻】、和服姿で、強面の笑顔の水原弘がモデルだった強力殺虫剤【ハイアース】、大村崑の【オロナミンCドリンク】、浪速千栄子【オロナイン軟膏】、美空ひばり【金鳥蚊取り線香】など、琺瑯看板は長寿商品の証だった。
画面左は、8年前に撮った(樹齢約20年の)オニグルミの木で、中央が昨日の朝撮ったオニグルミです。
この木は我が家のシンボル・ツリーにするつもりで、大切に育てているつもりだった。
毎年夏になると、アメリカシロヒトリがクルミの葉に巣くい、毛虫嫌いの家内に、早く根本から伐採しろ、いや、ダメだの攻防が恒例になっていた。
この木の下で、クルミの葉越しに空を見上げるのが、私の至福の時間だったので、クルミの葉に巣くった粟粒ほどの、大量の毛虫を除去するくらいは、造作もないことだった。
しかし、7年前に突然脳出血で倒れ、不自由な身になってから、このオニグルミの木までも、様子が徐々におかしくなり、退院後2年程から、片方の幹から枯れ始めてしまった。
この時期に、枯れた幹の部分だけを伐採していれば、現在この奇妙なキノコが生えることもなかったのだが、如何せん、気力体力が追いつかず、見過ごしにしてしまったことを反省している。
10年ほど前は、毎年、数百のクルミの実がたわわに実って、収穫が楽しみだったが、思い返すと、私が病気で倒れる1〜2年前から実らなくなっていた。
写真左の茸は、去年は木の上に小さなものが少し生えていたようだが、今年は木の根元まで、数えると6〜7個ほどに増えてきている。
今年の冬は【生き残ってくれと祈りながら】根本から60㎝ほど残して、伐採することになった。
リハビリ訓練に向う途中、送迎車の中ではこんな会話をしている。
午前中の利用者の送迎後、職員は昼食抜きで午後のグループを訓練所に送ることになっている。
午後の訓練を受ける私は、必然的に食い物の話をふることが多い。
先日、小さな公園の脇の道路中央で、ウロウロしている鳩を、危うく車に引きそうになった。
急発進急停車が厳禁の職員が、胸を撫で下ろしてホッとしている横で、日本に来た頃のアグネス・チャンが、公園の鳩を見て「わー、おいしそう」と言ったエピソードで、食いモノの話が始まった。
家内が子供の頃、霞網で捕った雀のチャンチャン焼きが大好物だったという話題から、「・・・あの、赤犬はうまいそうだね」と、脊柱管狭窄症のオヤジ。
「大家の猫を喰ったのはオメエだろ、という落語のフレーズがある」と、私。
「猫はまずそうだが、ネズミは旨そう」、運転手の職員も話しに食いついてきた。
「山岳民族のなかに、客が来るとペットのネズミを煮炊きしている火の中に放り込んで食べるって聞いたことがある」、元教師の品の良いおばあちゃんまで参加してきた。
「アボリジニが、茎の中に居るカブトムシの幼虫大の芋虫を、生のままおいしそうに食っているテレビを見たことがある」までエスカレートして訓練所に到着。
こんなちょい悪爺達が缶ビールを片手に、冬の日を背に受けて、頭を寄せて集まっている場所が似合いそうな(妄想が後から湧いてくる)家をこっそり撮ってしまった。
「江戸っ子だってねえ」「そうョ、神田の生まれだィ」広沢虎蔵の浪曲【森の石松三十石船道中】は、団塊の世代までは、テレビのない頃にラジオでよく演芸番組で聞いて、耳馴染んでいる人は多い。
ひとっ所に三代住み続けなければ、江戸っ子であれ、村の住人であれ同じで、地元に染まるには、長く住み続けなければならないと、肝に染みたのはこの地に越したその日に、自治会に参加してみてよく分かった。
村の区割りは、15〜20軒づつ班に組み入れられ、年毎に班長の役が回ってくる仕組みになっている。
割り当てられた役が出来ない嫌だなど言い出せば、大袈裟でなく村八分になってしまうし、直にこの目で追い出されたように引っ越していった一部付き合いの家族を目撃している。
初めて班長を遣らされたのは、越してから4年か5年だったので、班内の長老に仕組みを教わりに行ったのが幸をそうして、葬儀委員長までして、無事済ます事が出来た。
が、しかし、顔なじみになっていても、初代はいつまで経っても【よそ者 】の扱いは変わらない。
田舎暮らしはノンビリしていいね、など、その土地に根ざした昔からの風習やルールを、経験する必要のない者が言えること。
発言力のある長老達が居なくなり、 他県から新顔の家族がぞくぞくとこの村に住み始めて、昔からの風習が消えかかっている今、ちょっぴり寂しさを感じているのは私だけではないようです。
ご近所付き合いが、徐々に薄れてきたと感じたのは、いつ頃からだろうか。
大きなショッピングモールが小売店を脅かした頃から、村の近くに葬祭ホールなるものが出来、我が家にも、会員募集のチラシが入り込んできた頃のように思える。
その頃、班内の老人が亡くなったと緊急の回覧板が回り、やれやれ、また家族一人が出向いて、葬礼手伝いに行くのかと思っていたが、喪主からは、葬祭場に一切を任せたのでと、葬儀に行くだけになった頃が始まりだったと思う。
昨今テレビで、ある葬祭場CMのキャッチフレーズで、「さよならが、暖かい」など流れると、この落語のまくらのフレーズが思い出される。
【婚家先に嫁いだねずみの娘が、早々に里帰りしてしまった。】
母親ネズミが、あんないい家柄のご家族に何の不満があって帰ってきたと聞くと、ただ、泣くばかり。
「お婿さんが嫌になったのかィ」
「いいえ」
「あんなに優しいお姑さんは居ないのに、お姑さんかィ」
「エエ」
「じゃ、何で・・・・」
「・・・・だって、あのお姑さん、・・・猫なで声なんですもの」
西日本の外置きゴミ箱が、同じ形なのかは分からないが、子供の頃、外で遊んでいた時に目の隅に残っていて、街の辻や商店の脇に置かれていたのが、このゴミ箱だった。
まだ現役で使っている所もあったんですね。
家から半径3㎞の範囲に、火の見櫓が確実に3カ所はあった。
いつの間にか、ひっそりと消滅して、現在はこの一カ所だけでなく、他の地域も全て消滅していた。
半鐘の音が、落語や唄で表現されていても、今では何のことか分からなくなっている。
毎年正月に保存テープで、五代目古今亭志ん生(1890〜1973)の十八番【火焔太鼓】を聞いて久しいが、火の見櫓が無くなっては、「半鐘はいけないよ、おぢゃんになる」のお〈ぢゃん〉の、半鐘を鳴らした時の音色の表現が,平成生まれでなくても知らない者があり、死語になりつつある。
また、美空ひばり(1937〜1989)のヒット曲で『お祭りマンボ』という唄の歌詞二番で、「おじさんおじさん大変だ、どこかで半鐘が鳴っている、火事は近いぞスリバンだ」の摩鐘(すりばん)は、火の元が近い場合に、半鐘の中を搔き回して鳴らすことをいった。
冬の夜中は特に記憶に残るようで、村や町内で近場の出火は、摩鐘を早撃ちで連打「ぢゃんぢゃんぢゃんぢゃん」、近火は三連打「ぢゃん、・ぢゃん、・ぢゃん」、遠火はゆっくりと二連打「ぢゃんーーー、ぢやん、−−−」、鎮火は間を置いて打つ音が、耳に残っている。
歳を取ると自分の時間が無くなる、という事を聞いたことがある。
確かに、暮れが迫ってきた時期から、作品を作る時間が皆無になり、ここ三ヶ月は満足に木に触っていない。
全てに渡って、手足を押さえつけられたような今の状況を打開すべく、大晦日は村から見た富士山でもカメラに納めて、気分転換をと、図ったつもりが、移動途中で後輪左のタイヤがパンク!
・・・嗚呼!だが、しかし、
【捨てる神有れば、拾う神あり】。
車を止めたコインランドリーの駐車場で、ここの責任者がタイヤ交換を手伝ってくれました。
この一事で、暮れまでの厄落としが済んだような思いが、単純に湧いてきて、さぁ、来年に向けて気分一新が整った!と、思い込みも単純だが、大切です。
これまでホームページを見てくれた皆様、ありがとうございます。
良いお年をお迎え下さい。