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一月もすでに8日だが、オートマタの設計は足踏み状態なので、順調に進んでいるとは言い難い。
年賀状のコウノトリとエンゼルは、別々に作ることにして、完成後に合体するが、コウノトリの羽ばたきがイマイチ。
先人の真似では納得出来ず、終日カラクリのことばかり考えている。
完成は今月中と決めていて、雑用などは家人に任せるつもりだったが、家内は3日に過労でダウン。
灯油、食料など雑用を一手に引き受け、イライラが募ります。
一人暮らしを始めたのは、二十歳の頃だった。
独身時代最初の部屋は、蒲田駅西口から歩いて15分の街道沿いのアパートで、左官職人一家の二階が住処だった。
当時のカリスマ漫画家だった長島慎二描く「フーテン」の漫画世界の若者が住んでいるようなイメージそのままの、四畳半の角部屋で共同便所、部屋代が一ヶ月4500円と、当時でも格安な部屋だった。
生活費は歩いて15分の倉庫会社で働いて捻出していた。
そこで知り合った40代半ばのアルバイト仲間の一人に、今まで日本中各地を放浪して歩いていたという一種独特の雰囲気を醸し出していた男がいた。
何処を歩いてきたのか、また、各地方の特色を聞くと、皆どこも変わりがなかったと、意外に素っ気ない答えが返ってきたのが、強く記憶に残っている。
何処でどのように生きてきたのか分からないが、この『昭和懐古』の写真は、群馬館林市内と、大宮市内の風景をランダムに紹介しているが、それぞれ空気が違い、地方都市の建物の違いは微妙にあると思っている。
で、上のこの風景は、何処で撮った写真か、はたして違いがあるでしょうか。
セピア色の古民家が目に入ると、なんとも懐かしさで、思わずシャッターを押してしまう。
これが、錆び付いた波目トタン板となると、失礼無礼を胸の内で詫びながらの撮影となる。
当主は、俺の目の黒いうちは、勝手に取り壊すことならん。など、子供達に言い続けているんでしょうね。
御当主の長命を祈るばかりです。
ところで、うっかり体調を崩して、数日寝込んでしまったことで、ホームページの更新が出来ませんでした。
準後期高齢者は、口だけは達者でも、体が追いついて来ません。
自重あるのみです。
ピースサインをして写真に写る癖をお持ちの人は、今後大きな問題になる可能性があるという。
近年の画像の鮮明はおおいに進み、これはこれでいいのだが、この画像を、拡大拡大した画像もほぼ鮮明なので、この指紋の画像を切り取り、これを読み取る特殊な機械が完全コピーして、当人の許可無く指紋が一人歩き、なんてことが起こりうると聞いたことがある。
そんな現代で、構図の悪さ、何を目的に撮った写真か、全てに謎を秘めたこのコーナー写真の【ポンコツぶり】は、神経戦に傷付いた現代人を癒す元が、たっぷり詰め込まれたものと(自画自賛はここまで来ると痴呆ポンコツ)思っている。
反論は勿論ある。
この古民家は子供の頃、何処にでもあった雰囲気を醸していて、思わずシャッターを押した一枚なんです。
現在、窓枠の素材はサッシが殆ど使われ、通気性には何の問題が無いが、欲を言えば味気も素っ気もない。
職人が多いに腕を振るっていた半世紀前までは、どの家も窓に木枠が使われていた。
亡くなった姉の家は、小津安次郎映画に出て来るような家だった。
その姉が亡くなる今から20年前に、立て替えの話を聞いて、余計な話だが、勿体ないという理由で反対したことがある。
この家に毎日住んでみれば分かるが、締め切ったはずでも、外からの風どころか、塵芥は容赦なく入り込んでくるし、掃除の手間は毎日していない者には分からないと一蹴されてしまった。
立て替え日、この家の俯瞰図を描く為を口実に、写真を撮りに行って、解体された窓枠を貰っても良いか聞くと、即座に断られてしまい、この、窓枠ひとつとっても、大家族の嫁となった姉にはいい思い出はなかったようだ。
窓ガラスの形状は、磨りガラスや柄入り等が使われ、何気ないところにも、職人の技術に目を見張らされたことがある。
現在、ガラスの種類は以前と比べて大幅に減っていると聞いている。
この家の窓も、魅せられるという程度ではないが、確かに味がある。
この写真を見て、平成29年の今!と、言い切れる人がどれだけいるだろうか。
平成の御代になってまで、現役を貫くゴミ箱を発見したときに、我ながら死ぬまで現役の姿勢を貫くつもりなら、フォローする人材を早め早めに確保しておかなくては、と、気付かされた。
ゴミ箱だろうと、もう少し綺麗に掃除なり、後期高齢の長老に敬意を払ってやってほしいものです。
暖簾が出ていない。
今まで、この店の前を通っても、暖簾が掲げられていたという記憶が残念ながらなかった。
閉店してからどのくらい過ぎているのかも分からず、堂々とした店構えだけに、色々な意味で勿体ない。