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粗忽者噺の代表として、他に「粗忽長屋」「粗忽の使者」「堀之内」「松曳き」などがありますが、落語のほとんどが粗忽をベースに作られているのではないかと思います。この噺は上方落語「宿替え」を、夏目漱石が「三四郎」のなかで激賞した噺家三代目柳家小さん(1857〜1930)が東京に移したとされています。上方落語の多くが関東に移植されたなかで、いまだに上方色が強く残っている噺に感じます。オススメの噺家は録音盤では、大阪出身で東京の寄席で活躍した二代目三遊亭百生さん(1895〜1964)。初代桂春団治に入門して我朝。大正時代に八代目桂文治の内輪となって東京の高座に出ていたが廃業して満州(中国東部)に渡ってカフェのマスターで成功。敗戦後無一文となって再び高座に戻って桂梅団治。その後六代目三遊亭圓生の門に入って二代目百生に改名。代表作に「船弁慶」「宿替え」「天王寺詣り」「三十石」等がある。
この「鉃拐」という噺は、寄席や落語会、また、ラジオなどそれほど落語を聴き込んでいる訳ではありませんが、四半世紀前(大袈裟だねェ・・・)に、ラジオで三代目桂三木助さんの噺を、たった一度聴いただけで、その後一度も出会っていません。落語黄金期でも三代目三木助さんと、先代の二代目三遊亭円歌さn(1891〜1964)が演ったという記録が残っている稀少落語です。現実に渋谷や原宿の繁華街で渡海屋銀兵衛の手代たちが、十代の胸の大きな女(鉃拐)やイケメン(張果老)をスカウトしている現代でも十分通用する面白い噺なんですが、なぜか噺家さんには不人気です。
<鉃拐>や<仙人>は書物より絵のほうが表現に合っているのか、多くの画僧や絵師に描かれてきました。仙人がいつ頃、知識として日本に入ってきたのかは不明ですが、絵としてはおそらく日本にある最古の<鉃拐>を描いたのは顔輝で、至正25年(1365)の序をもつ『図絵宝鑑』に浙江省の人で、筆法奇絶の紹介があり、1300年初めに活躍していたとされます。日本には永正8年(1511)の『君台観左右帳記』に顔輝の記録が載っていて、その頃は多くの顔輝作品が輸入され、室町時代の絵画に多くの影響を与えた画家の一人でした。その作品も、この<鉃拐図>と<寒山拾得図>が東京国立博物館にあるのみとなっています。オチに登場する李白(701〜762)は、唐代の詩仙。「月下独酌」など酒を詠んだ有名な詩や「静夜思」「子夜呉歌」などが代表作。陶淵明(365?〜423)は南北朝時代の酒と菊を愛した詩人。「帰去来辞」「桃花源記」などを残しています。
参考に使ったこの噺のマザーテープの録音が昭和33年となっていて、当時すでに消滅していた有名な寄席の名前が織り込まれています。全盛期には各町内に一軒はあったという寄席も、この当時は志ん生、文楽、などそうそうたる名人上手が高座に出ていましたが、寄席そのものは衰退末期でした。現在は上野鈴本、池袋演芸場、新宿末廣亭、浅草演芸ホールの四軒のみとなり、それも昔からの寄席の雰囲気を残しているのは新宿末廣亭だけとなってしまいました。いや、寂しいかぎりです。
代表的な上方落語のひとつ。この「壺算」ということばは、明治の末頃まで、大阪で日常ごく普通の会話に使われていたいう説があり、考え違い、見込み違いの計算のことをいうそうです。
この噺は、延享4年(1747)版の軽口本、「算用多くして銭足らず」という小咄が原型のようです。大阪では水壺ですが、関東では水瓶といういい方ですので、本来の「これがほんまの壺算用や」というサゲや、二代目桂枝雀さんの「・・・こっちの思うツボや」のオチは、関東では噺の題名とは合いません。演者のサゲの工夫を楽しむ噺のひとつといえます。
落語黄金期では、八代目桂文楽の弟子で「水道のゴム屋」「妻の釣り」など創作物でも人気があった六代目三升家小勝(1908〜71) の十八番でした。現在は立川志の輔さん桂歌丸さんも演っていますが、個人的には当代権太楼さんの「壺算」がおススメです。
この噺は、左甚五郎噺と同じく、講釈からきました。甚五郎と少し違うのは、実在のモデルが江戸時代後期に親子二代で存在しています。『金明竹』に出てくる「祐乗・宗乗・光乗三作の三所物」「横谷宗珉四分一拵」の日本金工史に残る名人たちと同じく、浜野矩随もかなり腕の立つ金工だったようです。
実際に刀の鐔の値で、名人のランク付けが≪「鐔のデザイン」柴田光男著、人物往来社≫にでていて、重要文化財級の鐔の現在の価格は、二千万から三千万と、かなりアバウトで高額な値が付くようです。
では、同じ作者の「鐔」で普通に売買される値段はというと、四〜五百万が通常値のようです。この五百万という値を上限に、この本の著者の前述の金工のランク付けをみると、祐乗と横谷宗珉はトップの五百万。しかし、この超名人の鐔は市場に出ることはまれ、特に祐乗の鐔は無いといってもよく(別格の五百万円)でしょうね。後藤派の二代宗乗と四代光乗は350万と付いています。浜野矩随はというと、親子二代ともに150万の値が基準としてありました。
日本独自の『根付』は、現在そのほとんどが海外にあります。有名なサザビーオークションでも、この小さな彫刻作品に、紐通しのないものは、置物として区別され値もかなり下がるようです。現在日本にある根付けは、国立博物館、大阪市立美術館、飛騨高山の印籠美術館、渋谷にあるたばこと塩の美術館くらいで、その四館あわせても1500程度、大英博物館の根付けコレクション約2000に遠くおよびません。
金明竹の桿は黄金色。枝が出る部分に緑色の筋が出るのが特徴。この噺は「寿限無」「垂乳根」と同じく《言い立て》が楽しい前座噺の代表作。落語に出てくる田舎訛りは、場所が特定できないように工夫されていますが、なぜかこの噺は関西弁です。加賀屋の使いが述べる道具七品の中身は、ホンモノであれば今ではすべて国宝級の超一級品。客層が大名や豪商相手の骨董屋に与太郎を店番に使うぞろっぺいさが、落語の魅力のひとつ(かな?)。
本来の「金明竹」という噺には、最初に大受けする箇所で現在主流の、目利きを頼みにきた同業者に与太郎が、「家にも旦那が一匹いましたが、さかりが付いて・・・」というところはなかったそうです。これは三代目の金馬さんが、他の噺から持ってきて使い、それが受けたところ他のほとんどの噺家が右へ倣いとばかり使ったとのことです。
『四分一拵』の他に、刀剣彫金工が使った素材は、赤銅、黄銅(真鍮)、素銅(銅)、金・銀、鉄があります。
『小柄』刃を除いた柄の部分。これに刃を付けて小刃柄(こづか)ともいう。戦場で果物の皮をむいたり、ぺーパーナイフとして使ったとありますが、時代劇映画での、手裏剣のようには使わなかったそうです。
『脇差』の発生は、「太平記」に脇差の文字があるので南北朝時代にはあったようです。名字帯刀を許された者が用いた刀でもありました。
『金明竹』現在あるマダケ科に属する直径5センチに満たない太さの美竹を、寸胴の形で茶の湯の花器に使うには細すぎるように思えます。また資料写真にもそのよな細い竹の花器はなく、昭和後期に孟宗竹の突然変異で現れたモウソウキンメイが、日本に最初に隠元禅師が持ち込んだ竹だったとも考えられます。
吉原の遊女・幾代と車力頭だった喜兵衛が、元禄17年(1704)に両国に菓子屋を開いて繁盛したという実話を落語にしたもの。だそうです。この絵は江戸時代の搗き米屋の内部で、当時の精米はかなりうるさかったようです。
今年1月にも6ページのコマ漫画に収めた落語「時そば」があります。
「おい親父どこへ行くんだ?」「私にも分かりません。前に廻ってウナギに
聴いてください」子供の頃よく寄席で聴いた噺です。
面白くも何ともない噺を楽しく聞かせるんですから、ものすごい実力だったんでしょうね。この『寿限無』も何本かカセットテープに録音して現役の噺家さんで持っていますが、楽しく聞かせてくれるまではいっていないのが残念。
今年ようやく一年ぶりに落語会へ行けました。次は寄席にと少しずつ欲がでてきて、ま、無理せず動こうと思っています。
で、私も好きな噺家さんの代表作を選んでみました。あくまでも個人的な狭い範囲での独断と偏見ですので、お断りを申しておきます。
名人上手の噺家は代表作(?)が付いているのに、あれほどの名人だった志ん朝さんの代表作が何かを耳にする機会がなかったのが不思議でした。
では平成6年に惜しくも亡くなった二代目桂枝雀(1939ー1999)さんの代表作は、人によって大きく意見が分かれると思いますが、私は昭和55年8月4日にNHKラジオで放送した枝雀五夜のうち第一夜の『船弁慶』を挙げます。
志ん朝さんのお兄さんの十代目金原亭馬生(1928ー1982)さんは、亡くなるまでの前一年が皆すばらしい高座でした。強いて挙げると昭和56年10月22日TBSラジオのゴールデンワイド・ラジオ寄席での『目黒のさんま』と、迂闊にも放送日時が不明ですが、「さんま」の放送前同時期といっても間違いないと思いますが『品川心中』。あ、『抜け雀』もいいな。『笠碁』も・・・。
昭和期最後の名人だった六代目三遊亭圓生(1900ー1979)さんも、代表噺が人によって分かれるところだと思います。私は『乳房榎』が一番魅せられました。
青春時代にアルバイト生活をしながら遣り繰り算段して寄席に行った頃に、まだ前座でしたが後の古今亭志ん馬(1935ー1994)さんの噺に印象が残りました。後にテレビのいじわる婆さんで人気が出て、司会にも手を広げて大活躍しましたが、惜しくも60前で亡くなってしまいました。明るく陽気な高座で『羽織の遊び』『粗忽長屋』『替り目』など・・・面白かったなぁ。
古今亭繋がりで忘れてはならないのが、52歳で彼岸に行ってしまった志ん朝さんの弟子の右朝(1948ー2001)さん。正朝・右朝二人会で正朝さんのファンの私は、右朝さんの高座を斜っかいになって聞いていたのが祟って、素晴らしさが分かりませんでした。亡くなったその年の晦日にTBSラジオで古今亭右朝追悼特集があり、『干物箱』『一分茶番』を聞いて目が覚めたのですが後の祭りでした。
それにもう一人」、昨年61歳で彼岸に行った古今亭志ん五(1949ー2010)さん。落語会では端正な噺に魅了され、これからは志ん五さんの独演会にも積極的に行こうと思っていた矢先これも間に合わずでした。名人上手の道半ばにして彼岸の道に向かった噺家さんたちの噺を、もっと放送で取り上げてもらえるといいんですが・・・。
十代目桂文治(1924ー2004)さんの晩年、東京落語会での『親子酒』が強く印象に残っていますが、なんといっても文治さんの十八番は『堀之内』。文治さんは『あわてもの』というタイトルでやっていました。
文治さんが彼岸に出かけた前年に、五代目春風亭柳昇(1920ー2003)さんが行ってしまいました。テープで楽しく、ライブでは幸福感を与えてくれた貴重な噺家さんでした。十八番は「カラオケ病院」と『雑俳』。他にもありますがもっとも柳昇さんらしい噺だと思います。
陰気でほのぼのというまるで取り合わない二つのイメージが妙に合わさった四代目春風亭柳好(1921ー1992)さんも、忘れられない噺家の一人でした。高座に上がって第一声が「落語をやらせて頂きます」。お歳の割に髪の毛がたっぷりあって真っ黒だったのが妙にひっかかって、それも噺が進むにつれ忘れさせてくれました。。私はこの師匠の『蒟蒻問答』が一押しです。
落語芸術協会ではもう一人、大人の風格を感じさせてくれた三笑亭夢楽(1925ー2005)さん。『ずっこけ』、『押しくら』、『富士詣り』、漫談『世界の珍談奇談』など、下ネタがかった噺が嫌らしくなく、妙に面白かった覚えがあります。
生前はテレビで売れまくった初代林家三平さんは新作落語派か、それとも古典落語の噺家なのか、どちらの枠にも入らないスケールの大きな(?)噺家でした。代表作は『源平盛衰記』と『娘の結婚』。ごくたまに無性に聞きたくなってくる不思議な落語家ですね。
新作落語を聴いていて困ることは、こちらが気持ちよく寝ているときに、突然奇声を発したり大声を出してわざと起こそうとすること。新作派の三代目三遊亭円右(1923ー2006)さんの高座は、地味だった記憶がありますが、ご自身釣りマニアの経験を漫談風にした1990年作の『釣りドキュメンタリー』という傑作が残っています。こういった新作なら大歓迎で、寝るなんて不作法はしないんですがね。
操り踊りが良かった八代目雷門助六さん、上方落語の桂小南さん、子供の頃から落語家だった文朝さん、飄々とした仙人みたいな柳家小せんさん、誰にも真似の出来ない貴重な芸も一緒に彼岸に行ってしまって寂しい限りです。現在は殆どの噺家が大學出。だれの何のネタを聴いても金太郎飴みたいに同じに感じてしまうのは私だけでしょうか。
この作品はフレーベル館発行の「江戸小ばなし」第5巻収録の【寿限無】に新たに色づけしたものです。この他に【金明竹】【黄金餅】【垂乳根】も収録して750円で発売中です。
家督を息子に譲り、悠々自適の生活をおくっている準主役級の人物。モデルは真っ先に春風亭柳昇さんの顔がイメージとして出てきましたが、江戸時代の平均寿命からすると、40代と若い人がいたそうですね。54歳で彼岸に行った十代目金原亭馬生さんは若い頃からご隠居の風格がありましたもんね。「茶の湯」「千早振る」などは愛嬌があっていいんですが、「三軒長屋」では嫌われ者にもなっています。
はっつぁん、くまさんと並び称せられる落語長屋の代表格の住人、江戸ッ子八五郎が登場するネタは結構多く、「妾馬」「野晒し」「反魂香」「厩火事」「蒟蒻問答」「伊勢詣り」「掛け取り万歳」この絵の「首提灯」。鼻っ柱が強くて情に厚いが粗忽でもあるようですな。
一方の雄、熊さんの方はまともに熊五郎とフルネーム?で名指し、或いは自分で名乗っている落語は意外に少なく、「子別れ」「代脈」「崇徳院」等、大概は熊、熊さん、熊公なんぞと呼ばれ、扱いは誠にぞんざいですね。有名なネタでは「垂乳根」「寿限無」「饅頭こわい」「粗忽長屋」「船徳」」「堀之内」「寝床」「町内の若い衆」「天災」「一人酒盛」「花見の仇討」「錦の袈裟」「三軒長屋」「出来心」などなど。八五郎はそそっかしくて粗忽者、熊五郎の方はその逆で、落ち着いていて粗忽者。のようですな。
地主兼長屋の持ち主に雇われている長屋管理人のこと。「小言幸兵衛」「長屋の花見」「井戸の茶碗」「言い訳座頭」「たらちね」などは面倒見のいい、長屋の支配者の立場で出演。上の絵は「天狗裁き」。店子の見た夢を詮索して御上にしかられた粗忽で頑固な大家。この辺までは愛嬌がありますが、なかには「唐茄子屋政談」「大工調べ」に出てくる因業大家のように嫌われ者もいます。
放送禁止用語が今ほど厳しくなかった昭和55年当時までは、ラジオの寄席番組での落語が生き生きしていましたな。この頭のねじが一本少ない与太郎さんも、バカだチョンだの言われても町内の仲間に加わって一人前に扱われ、嫁まで世話をされて・・・考えたら与太さんの嫁になった女性も、並の器量じゃありませんね。「ろくろっ首」「鮑のし」「錦の袈裟」など。他のネタでは「金明竹」「孝行糖」「酢豆腐」「牛ほめ」「大工調べ」「長屋の花見」「かぼちゃ屋」「三軒長屋」「道具屋」「佃祭」「厄払い」「おしの釣り(殺生禁断)」「つづら泥」などなど。
亭主を亭主とも思わない、腹は立つけど、どこか憎めない、イメージでは万歳の内海桂子好江さんの、好江さんの方、ですね。この絵は「短命」でのカミさん。他に「火焰太鼓」「替り目」「厩火事」「風呂敷」「親子酒」「大山詣り」「締め込み」などなど。
キザで道楽者の遊び人のイメージが付いてまわる、落語では損な役回りの若旦那。「湯屋番」「船徳」「唐茄子屋」では道楽の末、親に勘当されての登場、徳と呼ばれていました。「明烏」では初心な堅物で登場し、このときの名前は時次郎でした。後の道楽者を暗示してサゲていましたな。「六尺棒」では、夜中に心張り棒を持って父親に追いかけられたときの道楽息子の名が徳三郎。声色の上手な本屋の善公に自分の替え玉を頼んで遊びに出かける「干物箱」の若旦那が銀之介。「酢豆腐」「羽織の遊び」の若旦那は名前も付けてもらえずに登場。インパクトある嫌われ者に徹してます。
飯炊き、薪割りなどの下働きをする地方出身者の本名が、たとえ華之丞や、喜三郎であっても格式のある武家や大店は、その家に定まっている下働き名があったそうですな。で、落語国の地方出身の下働きはなぜか歳も中年以上で名前も権助。登場する噺に、「木乃伊取り」「引っ越しの夢」「王子の幇間」「権助提灯」「山号寺号」「一分茶番」「しの字嫌い」などなど。上の絵は「かつぎや」。
大名の家老、武家の用人として登場。印象的なキャラクターとして活躍しているのが、「目黒のさんま」「粗忽の使者」「妾馬」「初音の鼓」「将棋の殿様」「蕎麦の殿様」など。
人がいいのが甚兵衛さん。性格はおだやかで、与太郎さんほど頭のネジが緩んでいるわけではないが、与太さんに似ています。しっかりもののカミさんの尻に敷かれ、道具屋の商いでは、岩見重太郎の草鞋、清盛の溲瓶、引き出しの開かない箪笥を仕入れてくるあたりはとても他人と思えません。上の絵は「火焰太鼓」。落語の中で一番好きな噺で、昔から正月元旦に五代目古今亭志ん生の「火焰太鼓」を聴くのが習わしとなっています。甚兵衛さんの登場する噺は他に「宮戸川」、世話焼きの霊岸島の伯父さんで登場しましたね。他に「熊の皮」「加賀の千代」「言訳座頭」など。
昔は寄席で「たがや」をかけている途中に、客の中に武士が居ると分かると、サゲを変えてたがやの首を飛ばしたそうですな。たいがいは共侍をたたっ斬りの、馬に乗った殿様の首をはねて、日頃から依張り散らしているリャンコに対して職人たち庶民が溜飲を下げていたんですね。あり得ないことをさもあるように表現するのが、落語だと思うんですが、このサゲを当たり前のようにたがやの首を斬ってしまう自称超一流天災落語家がいるんですね。面白くありませんね。
毎年正月に五代目の志ん生の『火焰太鼓』を聴くのが習わしで、気分良く年頭を迎え、暮に聴く噺に、『御神酒徳利』があります。この噺は2パターンあり主人公も別々です。、通い番頭の善六さんが主人公では、江戸から大阪まで道中に面白いエピソードを挟んで、鴻池の娘の病気を治すところまでの長い落語と、もうひとつの噺の主人公は八百屋で、三島まで行く途中の宿で、(通い番頭のパターンと同じ内容のエピソードがあって)途中で逃げ出してしまう、短い方、と、いっても40分近い落語があります。パターンは似通っていても同じ『御神酒徳利』なんですね。若い頃は前出の長い方の『御神酒徳利』が好きでしたが、今は五代目柳家小さんの演る八百屋に何ともいえぬ愛嬌を感じて、好きですねぇ。
上の絵は唐人飴売り。このほかに孝行糖売り、ホニホロ飴売り、土平飴売り、お万が飴売り、狐の飴売り等々、当時の飴売りや薬売りは異様な姿をした売り子が多かったとあります。それもこれも世知辛い世間様から、一文でも多く稼ぐ工夫が見て取れます。当時の飴がどんなものか分かりませんが、今でいう駄菓子のようなものだったのでしょうか。三代目金馬さんの噺を聞いていると、庶民(長屋の住人たち)のバイタリティーを感じます。あ、長屋の住人で忘れてはならないのが糊屋の婆さん。着物を洗った後、糊を付けた着物を張り板に貼って日光に当て、今で言うアイロンの役目をする、あの糊が結構需要があったのでしょうね。
泉岳寺近くの長屋の浪人、千代田卜斎(ぼくさい)から、売れたら折半という約束で、二百文で仏像を預かったくず屋の清兵衛。これを細川家の家臣、高木作左衛門が三百文で買ってくれた。この仏像を作左衛門が洗うと、台座の紙が破れて中から五十両の金が出た。
この美談が細川家の殿様の耳に入って、高木作左衛門が茶碗と一緒に、殿様の目通りを許された。その場に居た鑑定家が、作左衛門の茶碗を目にして顔色を変え「これは世に名高い井戸の茶碗でございます」と。で、その場で茶碗に三百両の値が付いて殿様の物に。
高麗時代末期から李朝前期(十四世紀)に、朝鮮半島で焼かれた茶碗。高麗茶碗のなかの代表的なものがこの井戸の茶碗。茶会記に初めて載ったのは天文六年(1537)、日本に来たのは十六世紀前半。茶道具として喜ばれたのは十六世紀後半からのようです。
上方落語の「饅頭こわい」は40分以上ある長い噺になっていますが、東京の方では、まことにあっさりとした短く粋な造りの噺になっています。この噺の関東版の方のオススメは人間国宝の五代目柳家小さんさん。「平林」「寿限無」等やこの噺などの前座噺を大真打ちが演るってのがいいですね。
八代目桂文楽といえば「船徳」「明烏」など持ちネタは30席足らずですが全て絶品でした。文楽襲名以前の馬之助時代から、高座に上がると「明烏」「明烏」という客席からの声で、他のネタをやらせてもらえなかったと、文楽さんの自伝「あばらかべっそん」にあります。
上の絵は町内の札付き、源兵衛と多助が、お稲荷様のお籠もりと称して、日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛の堅物の一人息子時次郎が吉原に向かうシーンです。
ブルーの空きスペースは手前が𠮷徳稲荷。時計回りでその左から明石稲荷、九郎助(くろすけ)稲荷、開運稲荷、榎本稲荷。𠮷徳稲荷の左にある道が衣紋坂その左脇に見返り柳。坂を下って大門。中に入って中央の通りを仲の町(なかのちょう)で両側遊女屋がたっぷり詰まった吉原全景。大門潜ればどんな堅物でも「ここは・・・お稲荷様じゃ・な・い・な」って分かるはずですが、時次郎はお茶屋まで上がり込んで、ようやく気が付いて大騒ぎするんですね。
明暦2年(1656)に、幕府から理由不詳のまま吉原に移転命令が出て、日本橋から浅草裏に移転することになったんですが、翌年の一月に江戸史上最大の火事と呼ばれた「振り袖火事」が起き江戸の三分の二が消失。 遊女屋は仮小屋から営業を始め、6月に遊郭が完成。移転前を【元吉原】、後の不夜城を【新吉原】と呼びました。
画面は大門(おおもん)。入って左に【面番所】(町奉行の与力・同心が立ち寄る番小屋)。その向かいは【四郎兵衛会所(吉原会所)】(吉原へ出入りする者を監視するためと、遊女の逃亡を防ぐ監視小屋)で、女性は通行証が必要だった。
メインストリートの両側は【引手茶屋】 。源兵衛、多助と若旦那は、ここでお稲荷様のお巫女さん(花魁)を 呼び、宴席の手配や揚げ代などを支払うシステムになっていたんですが、町内のワルはどのように若旦那を騙したのか・・・。八代目文楽さんが生きていた時代はまだ新吉原があった頃で、遊郭の空気が体に染み込んだ噺をしていたのではと・・・いや、こちらの勝手な想像ですがね。
旧暦の6月27日から7月17日までに限って大山阿夫利神社の参拝が許され、江戸っ子たちは競って出かけたようです。
その様子は葛飾北斎が描いた浮世絵、「隅田川」の(両国の納涼 一の橋弁天)に見て取れます。
両国橋東詰の垢離場で大山に繰り出す仲間たちが、水垢離で身を清め、初山(6月27日から月末)七日山(7月1日から7日)相(あい)の山(8日から12日)盆山(13日から17日)のうち、いずれか自分たちの都合に合わせて日本橋から出発したとあります。
藤沢宿まで約50㎞。途中保土ヶ谷か戸塚で一泊。それから大山まで早ければ一日。江戸っ子たちは健脚ぞろいだったんでしょうね。
先日テレビ東京でこの大山詣りをキャイーンのウドちゃんや、梅宮アンナ、玉袋筋太郎の三人が、往路だけですが6日と期限を切って歩いた様子を放送しました。
江戸時代と現在では交通事情が全く違いますし、私も「黄金餅」のコースを歩いた経験から、排気ガスや信号、狭い道幅、車やトラック、堅いアスファルト、人の多さや気の使い方等々、落語「大山詣り」の登場人物たちのプチ旅行と現在では、開放感ひとつとってもほど遠く、ひどく疲れた記憶しか残っていないんですね。
酒癖の悪い乱暴者の熊公が、大山詣りの帰路に、仲間たちより先に帰って、長屋のカミさん連中を坊主にしたという・・・なんでそうなったのかは落語「大山詣り」を聞いてのお楽しみ。個人的にオススメは十代目柳家小三治さん。
幼児向け月刊絵本に二年前掲載のもの。セレクトに悩みましたが、落ち着くところに収まったネタとなりました。
1・ものしりじまんの おしょうが おなかを こわして いしゃに みてもらった。
「おなかが はっているようですな。
ところで、 てんしきは おありかな?」 てんしき? なんのことだろう?
しらないと いえない おしょうは おもわず
「はい。」と こたえてしまったが、あとで しんぱいに なってきた。
2・そこで、 こぞうの ちんねんに てんしきを もってくるように いうと、
「おしょうさま、 てんしきって なんですか?」
「うーん、わしは まえに おしえたぞ。わからないなら おむかいに いって かりてきなさい。」
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