(125) 未発表作品・シニカタ・・・6
これを描いていた頃は、工業系デザイン会社在籍中の精神的におかしくなっていた頃の作品。
長女は幼稚園児の年少さんで、ピンクレディの「UFO」歌いまくり、長男は〇歳児にして空間に向かって何やら話していた頃までは記憶にあるんですが、ほかは未だに記憶が戻りません。
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これを描いていた頃は、工業系デザイン会社在籍中の精神的におかしくなっていた頃の作品。
長女は幼稚園児の年少さんで、ピンクレディの「UFO」歌いまくり、長男は〇歳児にして空間に向かって何やら話していた頃までは記憶にあるんですが、ほかは未だに記憶が戻りません。
未発表はこの他、「くたばれヒーロー」(モハメッド・アリとアントニオ猪木戦があった頃に描いたもの)「ロック・クライマーのユーウツ」(この作品が一番新しい)「続・死に方」(懲りずに挑戦、バカだねぇ)
この後二回、苦行は続きます。
敬愛するある昆虫学者が一人で、深夜山中で昆虫採集をしていた時に、それらしき人物に度々出会い、夜のしらじら開けまで話に付き合って結果人命救助を何人かされた話を聞きました。
重たいテーマを続編まで描いたのには無論訳もあります。
独身時代一枚漫画に飢えると、神田古本街に数件あった洋書点へ行き、バイトで手に入れたなけなしの食費から「ニューヨーカー」やら「ロンドン・パンチ」を買い、時には個人画集を手に入れて一枚漫画の表現方法をを覚えていった。(アパート代まで手を出すと数ヶ月は絶食の憂き目をみてしまいます)
アイデアが浮かんでも絵にするには、画力が無ければセンスもへったくれもなく、思い切って芸術大学に挑戦、(無自覚と単細胞はこの頃から)取りあえずお茶の水にある学校でデッサンを習うことになった。
当時は大学紛争のまっただ中で催涙弾で涙を流しながら木炭画に励んでおりました。
ヒュー・ロフティング原作『ドリトル先生』の名をわざわざ持ってくる必要があったのか、未だに疑問の「ドリトル先生」映画でした。
SEIKO World Super Tennis oct31-nov.5 1978 のパンフレット。
デラックスプレイボーイでご一緒したデザイン会社代表から初めて頂いた大きな仕事でした。
その後近年までお付き合い頂いて、全てにおいて助けてもらいました。
DELUXEプレイボーイ 1979年6月号。この頃頻繁に編集部に出入りしていたこともあり、本誌の週刊プレイボーイの印刷物はいつでも手に入ると思っていたことが仇となって、1979年から1980年まで本誌で仕事をした三年間の保存すべきファイルがごっそり欠けてしまっていて、残念至極。仕事部屋でほぼ密封状態のファイルですら、薄黒く黄ばんでしまっているので、この間の絵は諦めなければならないでしょうね。