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2011年11月 アーカイブ

2011年11月10日

回復期リハビリ訓練・10(現在の状況)

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うかうかしている間にブログを10日以上休んでしまいました。

また、このコーナーを続けるのに、記憶がどんどん途絶えてきて・・・、これ以上進むと途中下車になりかねないので、現状報告から記録再開。

左半身はほんの少し回復(と、言えるかどうか微妙)で、味覚はほぼ戻ったようですが、完璧ではありません。左手が使えないので犬食いにどうしてもなってしまいます。カミさんが外出して留守の時は出来るだけ外食を心がけ、食事マナーを自己チェック。人の目は良い介護士になります。

左手は右手で添えてモノをつかむ程度。握る力は赤子の握力ほど、買い物袋にゴミを詰めて固結びが、時間はかかりますがようやく結べ、完璧ではないですが左指はこの程度。腕は調子の良い日には90度、つまり前に伸ばすことは出来ますがこれも日によって。

仕事で使う鉛筆など、どうしても左で出来ないことは工作用小型万力を台に固定して、これで削ったり、爪切りなど、全てでなないにしても万力を工夫して使っています。

足は・・・、冬が近づいてきているので歩きはギクシャク。

唯一体重は10キロ以上落ちたままを維持していますが、外見は太っていた分皮膚がたるんで10歳以上老けて見え完璧な老人。ま、病気でなくても正真正銘の老人ですがね。

リハビリ施設を退院した後すぐに鴻巣の運転免許センターへ一人で行って適性検査を受けたのは正解でした。日常のストレスはドライブで発散。大宮を起点に群馬県館林、千葉県野田と四街道、東京霞ヶ関、赤羽、横浜保土ヶ谷、野毛山、中華街等近距離ですが病気前と同じように距離数を伸ばしています。

 ただし、運転しないカミさんは助手席で叫び通しで、体重減を更新。ナンデカナァ?

2011年11月11日

回復期リハビリ訓練・11 入浴

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風呂は理学療法、作業療法、言語聴覚療法の訓練の合間の一日おきにあり、自立を目的とした施設なので、救急病院のような入浴方法ではなかったのが、負け惜しみでなくホッとしたのを覚えています。

入浴は看護士がその日によって風呂の担当が替わり、当時男性看護士は2人いましたが、たいがいは女性看護士が呼びに来て下着やタオルを持って風呂場まで一緒に行き、脱衣を手伝ってくれました。

入院中5月だけは私の専属の担当になった看護学校の研修生・ハルカさん(仮名)が背中を流してくれたんですが、若い10代の女の子の看護にはさすがに勉強台とはいえ、風呂場で自分の目が宙に浮いているのがわかりましたね。

上の絵、正面奥が4坪ほどの広さの脱衣場、裸になると車椅子で洗い場まで運んでくれますが、その後はすべて自分で。蛇口スペースは5人ほど。看護士や見習い君は洗い残しが無いかを後ろでチェックするだけ。

右手の湯には比較的軽い症状の患者が肩まで湯につかる様に出来ているんですが、私は退院まで許可が下りず入れませんでした。

2011年11月13日

回復期リハビリ訓練・12 外周歩行訓練

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作業療法は相変わらず指のマッサージが続き変化のない毎日でしたが、理学療法では、階段やスロープの昇降の他に、病院内の廊下から外へと、次々に課題が突きつけられます。

建物の外周は300メートルか500メートルだったかは忘れましたがが、平坦な床から、砂利混じりのアスファルト道路のデコボコ道を一周するのに30分近くかかり、自分でも驚くほど汗が出たのを覚えています。

おまけに担当の理学療法のI先生は私の左半身の麻痺が尋常でないことから、愛情こもった目で左足の腱切りの手術か、麻痺を緩和するかなり痛いという注射療法を勧めてきます。

注射療法は数ヶ月に一回、治るまでというとんでもない条件が付き、先端恐怖症の私はどちらもまっぴらで、軽く受け流しながらの歩行訓練が退院まで続きましたが、この手の会話が適度の緊張を生んだのか、不思議なことに現在まで続いていて、いまだに転倒を免れているんですね。

研修生のハルカさんがいた時期はまだ廊下をヨチヨチ歩いていた頃で、この絵は一日のスケジュールを終えて眠気を催すような時間帯の時に見た、療法の先生と患者が中庭のコースをのんびり歩いているスケッチですが、ボーッと締まらないメモ描きの絵になっています。

2011年11月15日

回復期リハビリ訓練・13 入院も三分の一過ぎ

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4月は下旬に初孫が顔を見せに来てくれたのはいいのですが、いきなり泣かれてしまいました。

まだ人見知りにはなってなく、倒れる前は笑顔をよく見せてくれていたのですが、生まれて十ヶ月の赤ちゃんには何かが怖かったのか、これにはちょっとうろたえてしまいました。これは悲しい方のウロタエ。

反対に嬉しい方のうろたえという経験も初めてで、仕事関係の知人でパソコンの師匠でもあるモリさんが、大切な時間を潰して車椅子用のスケッチ台を自作して病室で調整して作り上げてくれたこと。

これを横で見ていた同室のテラ氏がさかんに羨んで、しかしこのモリさんとは気易く友人などと同格に扱えない人で、私とは落語長屋における大家さんと店子の関係に例えるとピッタリ合うんですね。で、この絵描きの店子の不義理が数年続き・・・いや、また本題から逸れてきてしまいましたわい。

で、実際左手が使えないので、ノートが筆圧で動いて描きづらかったので翌日からはおおいに助かりました。

また、この月の下旬には研修生のハルカさんのリハビリ病棟の研修が終わり、この後ガン病院と小児病院の研修が待っているとのこと。救急病院でも感じた絶対数が少ない看護師の、貴重な一人の勉強の手助けをこちらもさせてもらいました。行く末は優秀な看護師にと願うばかりです。

研修中の三週間は5階病棟の窓から見える富士山を見るのが楽しみでもあったようでした。しかし五月晴れとは縁遠い不発続きの毎日が続いて皮肉なことに一日違いの翌日に勇姿が。もう一日あったら良かったんですがねぇ。

27日の研修最終日にハルカさんからはスポンジで作ったかわいい自作の歯ブラシ台 のプレゼントがあり、闘病生活もいろいろと華を添えてもらった感慨深い月となりました。

2011年11月16日

回復期リハビリ訓練・14  病室のスケッチ

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四人部屋に一人だけ、居残りの気分です。

皆は作業療法か理学療法でリハビリ訓練中か、風呂に行っているんでしょうね。

シロセ君やカボチャ親爺たちは今何をしているかは、テレビの脇の、引き出しの上のボードのスケジュール表を見ればこの位置からでも分かります。

それぞれ一日を消化している最中で、留守中ののんびーりしたひとときの眠たくなるような覇気のないカットですね。

回復期リハビリ訓練・15  廊下で

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そのまま廊下へ出てスケッチ。

右端が障害者用トイレ。

その左側がワタリさんたちの居た女性4人部屋。

よく廊下まで笑い声が聞こえてきたものです。

2011年11月17日

回復期リハビリ訓練・16  食堂

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一日三食、世話になった所です。

正面はナースの待機室(?)。ここ採血したりします。患者たちの脱走や監視するコーナー(?あ、失礼!) でもあります。

ナース室左側空間は受付で、パソコンに向かっている看護師の左に受付嬢の椅子があります。

受付正面に廊下を挟んでエレベーターが二基。分かりづらい絵で申しわけない。

食堂は結構明るく広い造りになってて、スケッチしている私の背中側は一面大きな窓で、田園風景が広がっています。

絵の右側は食堂との間仕切りがあり、テレビがデンと設えてある休息室の広い空間。

食事の席は決まっていて、私の両隣はテラ氏とフクイさん(仮名)、隣の市から来た60歳後半のじさまで、席に着くと看護師や配膳係のおばさんたちが近くにいても、時々ものすごいことを言います。

「何だい、今日も小トリのエサかい?」

2011年11月20日

回復期リハビリ訓練・17  自主訓練室

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食堂とテレビ休憩室の仕切りを隔てた横に、自主訓練するための平行棒や、車椅子込みの体重計、血圧計のあるコーナーがあります。

ここも談話室のようになっていました。

上の図は鏡を見ながら自分の歩きをチェックしている図です。平行棒の長さはこの絵の倍くらいでした。

これも看護師に申告しての付き添いで訓練です。無断で勝手に器具を使うことは許されません。

ま、入院中私は一度も自主的に訓練しなかったので、退院間近の月には殆ど毎日でしたが、看護師に催促されてようやく重い腰を上げる怠け者患者の筆頭でした。

 

2011年11月21日

(62) ワインディング・ロード

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大病をすると自分の歩んできた原点に戻ると聞きました。

単細胞の私は疑いもせずそんな気になってきたので、習作時代の絵に少し手を加えて今日から私も再出発。

2011年11月22日

(63) 彫刻家

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むかし昔、孤島マンガばかり描いていた頃の作品のひとつです。

孤島マンガの怖いところは、作品数がベラボウに多いことから盗作呼ばわりされること。

私も若い頃に自称ベテラン編集者に、盗作呼ばわりされ悔しい思いをした経験があります。

こんな輩は無視するに限ります。

一枚マンガはそれぞれ思い入れが深いので、短いコメントを入れていきます。

2011年11月23日

(63) 征服

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何を描くか、テーマを決めずに筆任せで仕上がった色鉛筆時代の一点。

コマごとに配色を決めかねていた試作が残っていたので、その修復作業に半日かかってしまいました。

2011年11月24日

(64) 野鳥を捕まえるクラシカルな方法

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某大手出版社の月刊通信添削誌で、穴埋めスペースが横長だった時のマンガ。

程なくして、主人公の少年は他の媒体でも柴犬と一緒の生活で活躍(?)してもらいました。

2011年11月26日

ラフスケッチ(1)と、立川談志さんのこと・その1

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上の絵は立体作品を作る為の覚え描きのようなものです。

アイデアに詰まったときなどに、こういった設計図を筆の赴くまま描き貯めていたのが見つかりました。

このままでは立体は不可能ですが、麻痺のリハビリも兼ねていずれ形にしたいと思っています。

ところで、唐突に話題が変わります。

今月21日に落語家の立川談志さんが亡くなったニュースを23日の夕刊で知りました。

当日はリハビリ仲間のお年寄りの一人が突然身罷った事を耳にして、喪失感一杯の帰宅直後のことだったので、特に談志ファンでもないけれど落語好きの一人としてこのダブルパンチには参ってしまいました。

以前、教科書を主に出している教育出版(株)から、落語通信として落語好きの編集者、作家、イラストレーターなど友人知人に送っていた落語解説(のようなもの)を送っていた編集者の一人に教育出版の編集者もいて、一冊の本として残して貰えることになった時のことです。

いよいよ『競作かわら版 落語と江戸風俗』というタイトルで出版の目途がたち、なかで採り上げた落語家の一人に談志さんもいて、出版の許可を貰うため、共著の童画家と出版編集者三人で指定された浅草ゴロゴロ会館の楽屋に会いに行ったことがありました。

出版が2003年ですから、実際に会ったのは今から11か12年前 だったと思います。

当時まだ談志門下だった快楽亭ブラックの独演会に談志さんが助で出ているので、その合間にとのことで、三人ともガチガチに堅くなっていたのを覚えています。

2011年11月27日

ラフスケッチ(2)と、立川談志さんのこと・その2

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出版するにあたって担当の編集者が、私が描いたオススメの噺家紹介の30数人にコンタクトを取ってもらったところ、談志さん一人を除いて全て電話で快諾してもらったと伺っていました。

編集者と挨拶に出向くにあたって、何か手土産をと、当人サイドの窓口の人から注文があったと聞き、談志さんへは何を持って行けばスムーズに用件が済むか考えましたね。

で、困ったときの大船が有り難いことに私の近くに居ました。いや、今も居てくれています。

で、早速某動物園協会編集部に当時在籍していた敬愛する女性、黒田恭子さんに相談したところ、談志さんはある外国メーカーの野菜ジュースがえらくお好みということで、当日一時間ほど前に銀座の、そこにしか売っていないという店も教えて貰って買っていきましたよ。

水モノでしたからかなりの重量で、重い荷物は苦になりませんでしたが、指の関節が痛かったのがいい思い出として残っています。

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