それ行けラッキー[229]吉日の朝・第一部完
1988年10月の第一回目から早22年が経ちました。ラッキーと共に生活の小学校低学年の男の子が結婚。感無量です。またここまで連載を続けさせて頂けるとは思いもよりませんでした。とりあえずここで一休み致します。
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1988年10月の第一回目から早22年が経ちました。ラッキーと共に生活の小学校低学年の男の子が結婚。感無量です。またここまで連載を続けさせて頂けるとは思いもよりませんでした。とりあえずここで一休み致します。
東京電力に一度も会ったことがない親類がいたんですね、私に、で、これは当人から直接聞いたわけではないので、真偽のほどは分かりません。その親類の親類から聞いた最近の話です。所は栃木県。で、東京電力の社員といっても、電力とは違う会社で、東電のロゴが付いた上着を着て、コンビニに行ったところレジで買い物を拒否されたとのこと。その気持ちは分からないでもないんですが。江戸しぐさを身につけた江戸人が聞いたらどんな反応をするんでしょうね。
脚本 ビル・ウォルシュ、ドン・ダグラディ、撮影エドワード・コールマン 製作1968年 アメリカ この映画の8年後にカタログ雑誌「POPEYE」が創刊され、この雑誌に採り上げられたワーゲン・ビートルが大人気になり、当時は街でこの車をよく見かけました。
カミさんは帰宅後、私の仕事場へ声をかけてから、愛犬の世話や雑用をしていたようです。私の方は事の重大さも分からず、七転八倒の繰り返しでした。そのうちトイレに行きたくなってきたのですが、左半身は完全にマヒ。起き上がることも、勿論座るなんてことは出来ません。また悪いことに、当時カミさんは、ノックしないで突然ドアを開けて物を言う癖があり、当日は無意識に仕事部屋に鍵をかけていたんでしょうね。カミさんが私の異変に気が付いたのはあたりが薄暗くなったころで、倒れてからかれこれ4時間ぐらい経っていたと思います。
原作は雑誌「ニューヨーカー」の執筆者の一人、E・B・ホワイトが書いた児童文学。監督 ゲイリー・ウィニック 脚本 スザンナ・グラント、キャリー・カークパトリック、 撮影 シーマス・マクガーベイ。製作2006年 アメリカ この映画で唯一気になったのは牧場主の少女役のダコタ・ファニング。「宇宙戦争」では良かったんですがねぇ。ちょっと不気味でした。
見知らぬ同士、さりげなく目で挨拶をすることで、場が和やかになることをいいます。目は口ほどに物を言いですね。
救急病院での記憶は、今は殆ど残っていません。が、CTやMRIはすぐに撮られ、点滴も1日やそこらで外されたようです。(アバウトだなぁ)
この日から病棟の天井を眺めるだけの味気ない生活が始まり、少し動くと左腕や左足に触れ、他人の体を触っているような奇妙な、気味の悪い感触が右側に伝わり、この感覚が消えて早く元に戻るよう念じる毎日でした。
入院生活に慣れてきたころ(またアバウトだぁ、それまでに、リハビリパンツという名のおむつをさせられ、大恥の日々があるんですが、それは後に書きます)に、食事など病室から食堂、トイレ、風呂、訓練室までの移動は勿論車椅子。この後4ヶ月は車椅子生活でした。勿論(なにが勿論だか)転倒防止のため看護師監視の下、ベッドから車椅子へ移るんですが、この転倒で腰の骨を折ったりで、入院生活が無駄に長引いたり、リハビリ訓練が遅れるのを防止するためでしょうが異常といえるほどの監視でした。
入院当初、私もいちいち看護師を呼ぶのが面倒で、無断で車椅子に乗り移る途中、若い看護師に見つかって、こんこんと(ものすごい勢いで)説教され、頭を垂れるばかりでした。いや、思い返すとありがたいことなんですが。
その後転院したリハビリ病院で、一年生看護師が車椅子に乗って半日体験したのを見ましたが、「皆さん、こんなきつい経験をされているんですね」と、腰をさすってしばらく車椅子から立てない看護師もいて、見物した我々患者同士変な優越感に浸ったのを覚えています。
車椅子で移動が叶った間もない時、昼食で食堂に入った途端、巨人軍の木村拓也一塁コーチがクモ膜下出血で試合中に倒れ、救急搬送されたニュース(なにも倒れたところを映像で流すこたねぇだろッ)が4月2日。惜しくも5日後に逝去。別にファンでもないのですが、自分のこういう時期には堪えます。
続いて4月9日。作家で劇作家の井上ひさしさんが肺ガンで亡くなったと・・・。翌日は劇作家、演出家のつかこうへいさんも肺ガンで・・・。私と同じ団塊の世代ですぜ。
重複しますが、救急車で搬送途中に、人間のプライドを引きずっていると参ってしまうので、いつも落書きしている狸に変身して、まな板の上でされるがままでいようと、何故かこんな考えになったんですね。この防御法は退院して一年後になりますが、自分には正解だったようで、リハビリ訓練中でも自分を突き放して見ることが出来、陽気でいることができたんですね。で、つ狸の私でも、特に井上ひさしさんの訃報にはね、堪えました。
私の祖母は晩年、91歳の臨終間際まで、寝たままトイレをすることに抵抗して、病室の外にいて聞こえる看護師の説得に、病気だからしかたがないのにと思ったのを覚えています。私のもこれは家系からくるのかもしれません。足や手の感覚が戻らないんであれば仕方がないとして、これは退院までには何とかリハビリパンツだけは卒業しようと決意。退院時手足の感覚は30%から50%位まで戻り、ギリギリセーフでおむつからの縁切りが成功しました。
困ったことはもう一つ。これも入院中ですが、トイレには転倒防止のため看護師に監視 されるんですが、看護師によって目の前で監視されたり真横に居られるのには弱りました。後で分かったのですが、リハビリパンツの失禁チェックもあったんですね。
こういうことが前もって知識にあったら、人間ドックに率先して入って健康チェックしていたものを、なんですね。病気は本当に怖いですよ、皆さん。
上方落語の「饅頭こわい」は40分以上ある長い噺になっていますが、東京の方では、まことにあっさりとした短く粋な造りの噺になっています。この噺の関東版の方のオススメは人間国宝の五代目柳家小さんさん。「平林」「寿限無」等やこの噺などの前座噺を大真打ちが演るってのがいいですね。
監督はリチャード・フライシャー。二十世紀初頭の初期アニメーション時代で、ウォルト・ディズニーの強力なライバルだったマックスとデイブのフライシャー兄弟(ベティ・ブープ、やポパイ、等を世に送り出した)の兄、マックスの息子です。他の監督作品に「海底二万哩」(1954)「ドリトル先生 不思議な旅」(1967)等があります。
今から45年前の空想科学映画(黄ばんだ表現だなぁ)ですが、潜水艇をミクロ化するのはまだですが、人間の脳に入り込んでレーザーで患部を焼く場面ではほぼ実現していますね・・・かな?。人間をミクロ化する映画では、他に「ミクロ・キッズ」(1989)ってのがありました。
脚本 ハリー・クライナー 撮影 アーネスト・ラズロ 製作 1966年・アメリカ この映画の特撮部分だけを今度はCGで見たい気がします。