小林一茶卓上俳句カレンダー・・・1
(注)12年前のカレンダーです。
9月に入りました。まだ虫の音ではなくアブラゼミが鳴いています。朝晩は過ごしやすくなりましたが日中の猛暑は相変わらずです。
昨日埼玉県南部は午後になって久しぶりのドシャ降りの雨で、私一人自宅の駐車場の車の中で雨宿り。少し小雨になったので目の前の玄関まで行きましたが、小雨であってもサーカスの綱渡りの歩きの速度なので家に避難した時にはびしょ濡れでした。
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(注)12年前のカレンダーです。
9月に入りました。まだ虫の音ではなくアブラゼミが鳴いています。朝晩は過ごしやすくなりましたが日中の猛暑は相変わらずです。
昨日埼玉県南部は午後になって久しぶりのドシャ降りの雨で、私一人自宅の駐車場の車の中で雨宿り。少し小雨になったので目の前の玄関まで行きましたが、小雨であってもサーカスの綱渡りの歩きの速度なので家に避難した時にはびしょ濡れでした。
(注)12年前のカレンダーです。お間違いの無いよう。
一昨日に続いて昨日も、にわか雨が降ってくれました。
天気が崩れる予感は朝起きた時、左足が極端に重く、全体に大きな見えない手で掴まれているような感覚がして動きが思うようにならず、コントロールしにくくなります。ま、普段調子の良いときでもコントロールは出来にくいんですが。
昨日は3Dイラストに着手するつもりでしたが、体の方が司令塔のいうことを無視して 「ぐーたら万歳」の一日になってしまいました。夏の疲れが出て来たのかもしれません。
一足ずつ秋の気配が近づいてきています。が、虫の鳴き声なのか耳鳴りか区別がつきません。
また、リハビリ歩きの途中経過です。先月末あの茹だるような猛暑のなか銀座に行ってきました。どうも私は猛暑になると、のこのこと外を歩く癖が昔からあるようです。
前々から母親が用事があると言っていたので、銀座一丁目首都高下の駐車場で車を停め、母親と家内を先に行かせて私は近くの喫茶店へ向かい、ゆっくり歩いて路地の7m幅ほどの横断歩道の前まできて、立ち往生してしまいました。田舎の横断歩道とはえらい違い。信号が青から赤に点滅するのが早いこと!。二回ほど横断に失敗。少し休んで三回目に挑戦。丁度横断歩道中央で点滅が 始まり、覚悟を決めてそのまま渡り切りましたが、人の波が早く殺気立っていたのも田舎と大違いで、今まで歩きの途中には無かった左足の硬直が始まり、片足歩き?で渡り切りましたが、頑固に装具をしなかったこともイケマセンでした。
ぼくが小学生だった頃、貸本屋をやっている親戚がいました。
父方の兄弟も皆タンス職人でしたが、父のすぐ下の弟の連れ合いが店をやっていて、古くなったハードカバーの貸本マンガを貰いに久保山の家までよく歩いて行っていました。
そんな環境もあってマンガ少年の一人でしたが、好きであってもそれほど夢中になった記憶はありませんでした。そんな昭和30年代初めの、ぼくが小学校5〜6年頃、
一枚漫画は昭和30年代のぼくが中学生頃まで収集してノートに張り込んでいました。当然兄たちや姉たちの買った雑誌なのですが、バレずに怒られた記憶が無く考えると不思議でした。実はあまりよく読んでいなかったのかも。ま、とんでもない悪ガキには違いはないですが。
テレビ東京の「なんでも鑑定団」で、昭和30年代の漫画本に驚くような値が付くのを見ます。
私も今まで親類から貰った貸本全盛時代の漫画を現在まで持っていれば、新車の一台や二台買える金額を手にしていたでしょうね。
残念ながら子供の頃押し入れにごっそりあった月刊漫画雑誌の付録まんがやらハードカバーはある日きれいさっぱり消えていた事が何度もあり。黙って親に捨てられていました。泣いて抗議したところで後の祭り、この頃から金には縁のない人生だったんですね。
後年、神田古本街にある古本漫画専門店の中野書店の店主に聞いたところ、一番の高値がつく漫画家は水木しげるだそうで、「墓場鬼太郎」の漫画本は7〜8万の値段で買い取るそうです。嗚呼ッ!
私が兄弟として育った家は、保土ヶ谷の職人が多く住む下町の西久保町で、六畳二間に四畳半の平屋でした。
その六畳二間に親兄弟10人が頭を揃えて雑魚寝で周りの環境も似たりよったりの時代でもありました。そんな環境なので、物心付き始めた頃から自立は当然芽生えます。勉強そっちのけで絵ばかりの出来損ないに漫画などもってのほか、なのは当然で、二回三回と大切な宝物を捨てられては少しは考えますが、居たんですねぇ我が家にもマルサの女が。
私が生まれる一ヶ月前に結核で彼岸に逝った姉と、養女にいった姉を加えると、私の上に9人。
一番上が23、私のすぐ上の姉は6つ違いの私はビリッカス。私が10才の時に父親が彼岸に旅立ち、兄たち二人は姉と妹に挟まれた位置にいて典型的な女系家族でした。
一家の大黒柱を失っても兄弟たちは皆社会人。今まで質素だった生活環境は独裁者が居なくなると一挙に変わり、冷蔵庫(ちなみに電気では無い)が台所に収まるわテレビが来るわ等々。風船の糸が切れたようになったビリッカスを気遣ってか、頼みもしないのにサリバン先生の役を六女が手取り足取りのスパルタ教師に。それからはこのカスと六女の全面戦争が始まり、挙げ句は机の上の漫画本やノート鉛筆が窓の外に、
人を誹らず、恨まず、正しい道を歩むといった基本的な人としてのマナーは、六女の姉が私に叩き込んでくれました。
女系家族で歳が離れて一番下の男。というと思春期の子供など単なる物体で、道端の石っころみたいなもの。下着姿で跨いでいくは猫っ可愛がりされるはでは性格形成に悪影響と、家族の中でこの姉だけが父親の死後鬼軍曹となってくれた大恩人といえます。
職人としては腕が立った父親も生活面ではいい加減なところがあり、この姉の誕生から二ヶ月経った頃に出生届けを出したことが後に分かるなど、姉は晩年まで父親にも大変批判的でした。
昔気質の職人というと耳障りが良い方に今はなっているようですが、我が家ではひとことで言うと独裁者。共に生活をした者にとって、ひたすら怖い苦手な存在でした。ま、苦手な存在にしたのも自分ですが。
今春姉は彼岸に逝ってしまいました。子供時代には犬猿の仲だった姉が、一番の理解者だったのが家庭を持ってから分かり大切な存在でした。私が父親と多少性格が似通っていたこともあっての矯正だったと思います。今は感謝感謝のマルサの女でした。
団塊世代の漫画少年だった人には次の説明だけでも分かるのではないかと思いますが、武内つなよしの「赤胴鈴之助」を坊主頭にすると「イガグリくん」に、「イガグリくん」に金髪、ハンチングを被せると「ビリー・パック」。髪の毛を黒くして仮面風な眼鏡?で「まぼろし探偵」眼鏡とハンチングを消して、元の坊主頭にして黒く塗りつぶし、三角の黒い角を頭の左上と右横に付けると「鉄腕アトム」。少年漫画の主人公はキャラクターの顔だけ見れば皆大して変化が無く、(似顔が誰にでも描ける)同じような漫画がかなりの割合で出回っていました。そのなかで、簡単に描けてしかも当時突出してユニークな作風に杉浦茂さんがいて、子供の頃に親類から貰った宝物が、おもしろ文庫の「少年西遊記」でした。
私の悪い癖で人に貸して無くされてしまいましたが、今でも思い返すと自分に腹が立ってしまいます。
もの言えば唇寒し。
絵を描く者として、今の日本漫画の基礎を築いてくれた先人に対して、批判めいたことを言うのはいけませんでした。
少なくとも今の私を形作るのは、「おれは猿飛だ」「スーパー太平記」の手塚治虫(現在手にできる手塚作品は理由は分かりませんが、ある時期過去の作品群を皆トレースして描き直してしまった絵で、昭和20〜30年当時の絵とは別物です)、「少年西遊記」「猿飛佐助」「地雷也」の杉浦茂、「背番号ゼロ」「スポーツマン金太郎」の寺田ヒロオの子供漫画から大人漫画へ、「かっぱ川太郎」「かっぱ天国」の清水崑、「こんにゃく物語」の馬場のぼる、そして画学生時代に夢中になったロナルド・サールまでがアルバイト生活の独身時代。結婚して家庭を築いてから、ジャン・ジャック・サンペ、そしてジャン・ミッシェル・フォロンに、イラストへも目が向いていき、それぞれが血肉となって今があります。
小学校の父兄参観日の昼、給食を食べていた時に担任の教師が顔を近づけてきて小声で、「津田のお母さんは、本当のお母さん?」と、聞かれたことがありました。そういえば思い当たることがぞろぞろ。後に養子だったことが分かり、明治生まれの両親に戦後生まれの末っ子は考えればちょっと不自然でした。ま、そこは大雑把な性格にに育ててくれたおかげで気にも留めなかったんですが、この時の教師の顔と言葉はどこかに引っかかっていたんでしょう。
当時の時代背景もありますが、大家族の貧乏家庭で、まだ戦後闇市の食糧難を引きずっていた時代の、生活環境も戦争の傷を引きずった荒んだ人間がまだいたと聞きます。そんな時に赤子に手を差し伸べてくれて、ごく普通に三男として当たり前に接して育ててくれたのには深く頭が下がります。結果的には生みの親より育ての親と、当然の結論に帰結しましたが、それも独立してからのことでした。
家内を始めて家に連れて来た時、我が家では普通の会話も家内には喧嘩していると勘違いされたほどの関東の喧嘩言葉だったようで、子供だった私が母親の意に添わないことをやらかした時の常套句が「おまえなんざ、豆腐の角に頭を打つけて死んじまえ!」で、それ以上踏み込んだ一線を越えた感情を投げてくることは、兄弟喧嘩の時の兄弟にも無かったと記憶しています。幸運だったんでしょうね。
落語家・三代目三遊亭円歌さんの自伝落語「中沢家の人々」という噺に、ご自身と両親の爆笑エピソードのくだりがあります。
落語家になるという円歌さんに反対した父親が説教するくだりで、「親という字は立つ木を見ると書いて親と読むんだ」、成長して行く子を見守るから親という字があると、親の意見に従わない円歌さんを、家から叩き出して戸籍まで抜いた両親が、その後円歌さんが有名なって家を建てたら、親の金で大学まで出してやった息子たちの家に置いてもらえず、勘当した円歌さんの家に同居した噺をしています。
家庭を持ち子が出来ると皆さん子育てに苦労します。
今から20年前に子育ての指針ともなる絵本に関わらせてもらいました。学習に役立つビジュアルシリーズ「生きているわたし 体と心」分研出版から10冊セットのうち、7巻目、心のひとり立ち(心の発達)を精神科神経科医の斉藤昌先生の文で、0才から思春期までの心の発達に絵を添えさせてもらいました。
将来が全く予測が付かない職業に付いた場合、食べて行けるかは7〜80%は運まかせ。テレビの長寿番組「笑点」は46年近くも続いている怪物番組になっています。番組当初からのメンバーは司会の桂歌丸さんだけになってしまいましたね。
6年前に新しくメンバーに加わった春風亭昇太さんと林家たい平さんは、落語家として寄席という限られた狭い世界から日本中に名前を知られた金箔付の幸運児といえます。
現在の若手落語家は大学出が多いと聞きますが、殆どが親の反対を押し切ってなった者のようです。
昇太さんは大学卒業前に師匠の柳昇さんに入門する時、「親から(落語家になることの)承諾を貰っています」と言って実家に戻ると、「就職が決まったよ、今度春風亭柳昇っていう所に就職したから」と、落語に無知な親を騙して(しかも師匠までも)なった昇太さんのような者もいて、言わば親不孝の団体が落語家(ばかりでは無いですが)と言えます。
通例は落語家の師匠が、入門希望の当人の口から親の了解を得たのかを聞くか、もしくは親を連れてきて確認の言葉を直接聞いた上で納得してから弟子にするとのこと。ま、殆どが門前払いだそうですが。
このところめっきり演芸番組が少なくなってしまいました。以前は菊正辛口名人会、早起き名人会、真打ち競演、らんまんラジオ寄席、上方演芸会、ラジオ深夜便等々、各局のラジオから名人上手の話芸が聞けたのでエアチェックに忙しかったものです。
落語が流行ると不況という定説は崩れ去ったのでしょうか。
色物の幅(遣り手)が狭くなってきたように感じた頃に倒れて、寄席に足を運べなくなったので、今の様子がよく分かりません。漫才、漫談、音曲、手妻、ボーイズ漫談、三味線漫談、ギター漫談、腹話術、操り人形、果ては百面相なんてものもありました。
落語ブームを維持するのはこのような色物が活発なことも重要な要素のひとつと思っています。でも今も落語ブームなんでしょうか?
左手が使えなくなってからは、車に乗り込む時に、杖を車の屋根に乗せてからドアを開けて乗るので、シートベルト脇に入れ忘れて車を動かしてしまいう事が度々ありました。
これで先日危うく三本目の杖を無くすところでした。
先日一人で用事を染ませての帰り道、農道脇のカーブでバックミラーに杖が転がり落ちたのが見え、拾いに戻った時は既に遅し、後続車に引かれて杖の中央が潰れ、使えないことも無いが半分程度のオシャカ。カミさんが同乗していたら危うく怒られるところでした。
で、昨日は以前から家内に頼まれていた外置きベンチの修理を兼ねて杖を自作することにしました。ベンチは紫外線で腰掛けの板の接着剤が剥がれ、座ると尻の肉を鋏んでしまうことがあったので両枠と下の面に金具で固定するだけの簡単な作業で終わりました。
これを午前中に済ませ午後から杖作り、三年前に枝下ろしをした時に取っておいた鬼ぐるみの枝を皮剥ぎからヤスリがけ、杖先端を滑り止めのゴムの内径に会わせて削ってから装着。残っていたワトコの植物オイルの一回目の塗りで、蚊が現れたので終了。 粗忽な性格は余計な仕事を増やすので、困ったもんです。
リハビリ訓練も2年を超えると創立が若いとはいえ私も古参の内に入ってしまいました。平均年齢は70過ぎの男女やや同数。毎回ほぼ同じ席に座り、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のゾンビ集団の歩きのように移動してマシンに向かいます。(失礼!)私もです。
半身麻痺、糖尿から来る見た目には分からない症状、難病患者、加齢で膝の不自由な人。
いつも隣に座る70才半ばのムードメーカーでもあるフィリップ・ノワレ氏はある日、ゴルフのプレー中に突然歩けなくなり、病院で難病と告知をされ、「あなたの病気は、今後治る見込みがありません」と、医者にあるまじき暴言を吐かれた人。また、風邪で寝込んだ後、急に両膝が曲がらなくなった70ちょい過ぎの女性。胃がん肺がん等片手で収まりきれない病気を克服した見た目取っ付きにくい頑固爺。糖尿で右足の感覚が無くなった70ちょい過ぎの女性、両膝の軟骨がすり減って手術したもうすぐ80の女性等々、
このリハビリに通っている人たちに共通しているのは、やや陽気を自ら演出していることでしょうね。
敬老の日もリハビリはあり、訓練士の皆さんは祭日も休み無く仕事でした。
昨日は一人暮らしの親のご機嫌伺いで隣の県へ出かけ、帰宅後夏の疲れが我が家の電気製品にまで及んで、洗濯機、浄水器等を見に行ったので「心の発達」は準備不足で間に合いませんでした。
で、日にち遅れの「ドン」に登場してもらいました。私の方の疲れは相当たまっています。
電動糸ノコ盤の糸ノコ交換(装着)補助具にストッパーを付けないと具合が悪ことのが分かり、昨日はそのストッパー作りと杖作り。
細工物の環境が出来たとはいえ、まだ不具合なところが出てきます。電動工具は使わなくてもスイッチを入れたり油を注していつでもスタンバイ出来るようにしてきましたが、糸ノコが古くなっていたので新しい糸ノコを買いに行ったり、家の雑用を任されたりと落ち着いて作業ができないバタバタした日となりました。
家から一歩外に出るというのは、健常時と違って5倍から10倍の時間と体力がかかりますが、厭わずに動かないと前に進めません。この病気は休めばそれだけ停滞どころか石のように固まってしまいます。サーカスの綱渡りのような歩き方でみっともなくても、普通に歩けるようになるまで動き廻ることにしています。
もう15〜6年以前、首都高5号線でお茶の水に向かっていたとき、急にアクセルが効かなくなり、首都高壁際の電話でJAFに助けを頼んだことがありました。
取りあえず首都高を降りて下さいとJAFの指示で、惰性で出口から一般道へ降り、高島平か志村三丁目あたりだったと記憶していますが、住宅地脇で拾ってもらい牽引して近くの整備工場へ行ったことがあります。原因はクラッチ板の損傷で愛車は廃車となりました。その時の愛車は3日は空けることなく動かしていて順調でしたし、整備点検などしっかり見てもらっていたんですが、それでもこんなこともあります。
前回リハビリ 訓練の休憩で、難病で歩きが不自由になったフィリップ・ノワレ氏と、70代の追突事故と股関節手術が失敗にした(当人の弁)男性との会話で、歩きに問題がある場合、頭部疾患を第一に疑った方がいいんじゃないか、と無駄話での素人判断。
車でもエンジンの不調かクラッチ板の損傷で動かなくなることもあるので、何が原因か分かりません。整備点検を専門家に任せていても不測の事態や病気も突然襲ってきます。こうなると運次第ですね。金さん銀さんの娘さんたちは、病気に関して幸運な人生といえますね。