(1)特集ページ・帽子
週刊プレイボーイ編集部に売り込みに行った時に、帽子イラストのテスト注文があったと思っていたのが記憶違いで、印刷物が保存してありました。
出版イラストの初めの一歩は1978年4月4日号の特集4ページ、サブタイトル「ディランのセンスを盗め」という街頭スナップの見開きページでした。
週刊プレイボーイ編集部に売り込みに行った時に、帽子イラストのテスト注文があったと思っていたのが記憶違いで、印刷物が保存してありました。
出版イラストの初めの一歩は1978年4月4日号の特集4ページ、サブタイトル「ディランのセンスを盗め」という街頭スナップの見開きページでした。
初級技術教育資料『ベビコン・汎用圧縮機』のテキストブックより。
このベビコン坊やは他のイラストレーターの手によるもの。版権はこっち(工業系デザイン会社の社長が所有しているとの言)にあるから何も問題は無いとアイキャッチを描かされ、バインダーや資料の表紙、タバコにまで使われ、愛憎半ばの絵となった。
デラックスプレイボーイのカットを描いていた時期とそう変わらない頃の絵です。
意識して描き方を変えていたつもりはないですが、違いますね。
古巣のデザイン会社は本郷三丁目にあり、修正や追加イラストは会社での作業でした。
当時の思い出として、キャンディーズの引退コンサートが後楽園球場で行われ、坂の上にある会社まで野郎どもの矯正が聞こえ、苦笑しながらの作業をしたことがあります。
二つ折りA4版の大きさで、縦組みをブログ用に横組みに変更。
DELUXEプレイボーイ 1979年6月号。この頃頻繁に編集部に出入りしていたこともあり、本誌の週刊プレイボーイの印刷物はいつでも手に入ると思っていたことが仇となって、1979年から1980年まで本誌で仕事をした三年間の保存すべきファイルがごっそり欠けてしまっていて、残念至極。仕事部屋でほぼ密封状態のファイルですら、薄黒く黄ばんでしまっているので、この間の絵は諦めなければならないでしょうね。
工業系デザイン会社で描いたパンフレット。表4に製作年があったり無かったりで、正確に特定できないですが、苦手な女性の絵を見ると、このぎこちなさは1980年以前の絵のようです。
表紙裏面。見開き左ページ。
見開き右ページ。
(注)12年前のカレンダーです。
9月に入りました。まだ虫の音ではなくアブラゼミが鳴いています。朝晩は過ごしやすくなりましたが日中の猛暑は相変わらずです。
昨日埼玉県南部は午後になって久しぶりのドシャ降りの雨で、私一人自宅の駐車場の車の中で雨宿り。少し小雨になったので目の前の玄関まで行きましたが、小雨であってもサーカスの綱渡りの歩きの速度なので家に避難した時にはびしょ濡れでした。
(注)12年前のカレンダーです。お間違いの無いよう。
一昨日に続いて昨日も、にわか雨が降ってくれました。
天気が崩れる予感は朝起きた時、左足が極端に重く、全体に大きな見えない手で掴まれているような感覚がして動きが思うようにならず、コントロールしにくくなります。ま、普段調子の良いときでもコントロールは出来にくいんですが。
昨日は3Dイラストに着手するつもりでしたが、体の方が司令塔のいうことを無視して 「ぐーたら万歳」の一日になってしまいました。夏の疲れが出て来たのかもしれません。
一足ずつ秋の気配が近づいてきています。が、虫の鳴き声なのか耳鳴りか区別がつきません。
また、リハビリ歩きの途中経過です。先月末あの茹だるような猛暑のなか銀座に行ってきました。どうも私は猛暑になると、のこのこと外を歩く癖が昔からあるようです。
前々から母親が用事があると言っていたので、銀座一丁目首都高下の駐車場で車を停め、母親と家内を先に行かせて私は近くの喫茶店へ向かい、ゆっくり歩いて路地の7m幅ほどの横断歩道の前まできて、立ち往生してしまいました。田舎の横断歩道とはえらい違い。信号が青から赤に点滅するのが早いこと!。二回ほど横断に失敗。少し休んで三回目に挑戦。丁度横断歩道中央で点滅が 始まり、覚悟を決めてそのまま渡り切りましたが、人の波が早く殺気立っていたのも田舎と大違いで、今まで歩きの途中には無かった左足の硬直が始まり、片足歩き?で渡り切りましたが、頑固に装具をしなかったこともイケマセンでした。
ぼくが小学生だった頃、貸本屋をやっている親戚がいました。
父方の兄弟も皆タンス職人でしたが、父のすぐ下の弟の連れ合いが店をやっていて、古くなったハードカバーの貸本マンガを貰いに久保山の家までよく歩いて行っていました。
そんな環境もあってマンガ少年の一人でしたが、好きであってもそれほど夢中になった記憶はありませんでした。そんな昭和30年代初めの、ぼくが小学校5〜6年頃、
一枚漫画は昭和30年代のぼくが中学生頃まで収集してノートに張り込んでいました。当然兄たちや姉たちの買った雑誌なのですが、バレずに怒られた記憶が無く考えると不思議でした。実はあまりよく読んでいなかったのかも。ま、とんでもない悪ガキには違いはないですが。
テレビ東京の「なんでも鑑定団」で、昭和30年代の漫画本に驚くような値が付くのを見ます。
私も今まで親類から貰った貸本全盛時代の漫画を現在まで持っていれば、新車の一台や二台買える金額を手にしていたでしょうね。
残念ながら子供の頃押し入れにごっそりあった月刊漫画雑誌の付録まんがやらハードカバーはある日きれいさっぱり消えていた事が何度もあり。黙って親に捨てられていました。泣いて抗議したところで後の祭り、この頃から金には縁のない人生だったんですね。
後年、神田古本街にある古本漫画専門店の中野書店の店主に聞いたところ、一番の高値がつく漫画家は水木しげるだそうで、「墓場鬼太郎」の漫画本は7〜8万の値段で買い取るそうです。嗚呼ッ!
私が兄弟として育った家は、保土ヶ谷の職人が多く住む下町の西久保町で、六畳二間に四畳半の平屋でした。
その六畳二間に親兄弟10人が頭を揃えて雑魚寝で周りの環境も似たりよったりの時代でもありました。そんな環境なので、物心付き始めた頃から自立は当然芽生えます。勉強そっちのけで絵ばかりの出来損ないに漫画などもってのほか、なのは当然で、二回三回と大切な宝物を捨てられては少しは考えますが、居たんですねぇ我が家にもマルサの女が。
私が生まれる一ヶ月前に結核で彼岸に逝った姉と、養女にいった姉を加えると、私の上に9人。
一番上が23、私のすぐ上の姉は6つ違いの私はビリッカス。私が10才の時に父親が彼岸に旅立ち、兄たち二人は姉と妹に挟まれた位置にいて典型的な女系家族でした。
一家の大黒柱を失っても兄弟たちは皆社会人。今まで質素だった生活環境は独裁者が居なくなると一挙に変わり、冷蔵庫(ちなみに電気では無い)が台所に収まるわテレビが来るわ等々。風船の糸が切れたようになったビリッカスを気遣ってか、頼みもしないのにサリバン先生の役を六女が手取り足取りのスパルタ教師に。それからはこのカスと六女の全面戦争が始まり、挙げ句は机の上の漫画本やノート鉛筆が窓の外に、
人を誹らず、恨まず、正しい道を歩むといった基本的な人としてのマナーは、六女の姉が私に叩き込んでくれました。
女系家族で歳が離れて一番下の男。というと思春期の子供など単なる物体で、道端の石っころみたいなもの。下着姿で跨いでいくは猫っ可愛がりされるはでは性格形成に悪影響と、家族の中でこの姉だけが父親の死後鬼軍曹となってくれた大恩人といえます。
職人としては腕が立った父親も生活面ではいい加減なところがあり、この姉の誕生から二ヶ月経った頃に出生届けを出したことが後に分かるなど、姉は晩年まで父親にも大変批判的でした。
昔気質の職人というと耳障りが良い方に今はなっているようですが、我が家ではひとことで言うと独裁者。共に生活をした者にとって、ひたすら怖い苦手な存在でした。ま、苦手な存在にしたのも自分ですが。
今春姉は彼岸に逝ってしまいました。子供時代には犬猿の仲だった姉が、一番の理解者だったのが家庭を持ってから分かり大切な存在でした。私が父親と多少性格が似通っていたこともあっての矯正だったと思います。今は感謝感謝のマルサの女でした。
団塊世代の漫画少年だった人には次の説明だけでも分かるのではないかと思いますが、武内つなよしの「赤胴鈴之助」を坊主頭にすると「イガグリくん」に、「イガグリくん」に金髪、ハンチングを被せると「ビリー・パック」。髪の毛を黒くして仮面風な眼鏡?で「まぼろし探偵」眼鏡とハンチングを消して、元の坊主頭にして黒く塗りつぶし、三角の黒い角を頭の左上と右横に付けると「鉄腕アトム」。少年漫画の主人公はキャラクターの顔だけ見れば皆大して変化が無く、(似顔が誰にでも描ける)同じような漫画がかなりの割合で出回っていました。そのなかで、簡単に描けてしかも当時突出してユニークな作風に杉浦茂さんがいて、子供の頃に親類から貰った宝物が、おもしろ文庫の「少年西遊記」でした。
私の悪い癖で人に貸して無くされてしまいましたが、今でも思い返すと自分に腹が立ってしまいます。
もの言えば唇寒し。
絵を描く者として、今の日本漫画の基礎を築いてくれた先人に対して、批判めいたことを言うのはいけませんでした。
少なくとも今の私を形作るのは、「おれは猿飛だ」「スーパー太平記」の手塚治虫(現在手にできる手塚作品は理由は分かりませんが、ある時期過去の作品群を皆トレースして描き直してしまった絵で、昭和20〜30年当時の絵とは別物です)、「少年西遊記」「猿飛佐助」「地雷也」の杉浦茂、「背番号ゼロ」「スポーツマン金太郎」の寺田ヒロオの子供漫画から大人漫画へ、「かっぱ川太郎」「かっぱ天国」の清水崑、「こんにゃく物語」の馬場のぼる、そして画学生時代に夢中になったロナルド・サールまでがアルバイト生活の独身時代。結婚して家庭を築いてから、ジャン・ジャック・サンペ、そしてジャン・ミッシェル・フォロンに、イラストへも目が向いていき、それぞれが血肉となって今があります。
小学校の父兄参観日の昼、給食を食べていた時に担任の教師が顔を近づけてきて小声で、「津田のお母さんは、本当のお母さん?」と、聞かれたことがありました。そういえば思い当たることがぞろぞろ。後に養子だったことが分かり、明治生まれの両親に戦後生まれの末っ子は考えればちょっと不自然でした。ま、そこは大雑把な性格にに育ててくれたおかげで気にも留めなかったんですが、この時の教師の顔と言葉はどこかに引っかかっていたんでしょう。
当時の時代背景もありますが、大家族の貧乏家庭で、まだ戦後闇市の食糧難を引きずっていた時代の、生活環境も戦争の傷を引きずった荒んだ人間がまだいたと聞きます。そんな時に赤子に手を差し伸べてくれて、ごく普通に三男として当たり前に接して育ててくれたのには深く頭が下がります。結果的には生みの親より育ての親と、当然の結論に帰結しましたが、それも独立してからのことでした。
家内を始めて家に連れて来た時、我が家では普通の会話も家内には喧嘩していると勘違いされたほどの関東の喧嘩言葉だったようで、子供だった私が母親の意に添わないことをやらかした時の常套句が「おまえなんざ、豆腐の角に頭を打つけて死んじまえ!」で、それ以上踏み込んだ一線を越えた感情を投げてくることは、兄弟喧嘩の時の兄弟にも無かったと記憶しています。幸運だったんでしょうね。
わずか2〜3か月の在籍だった古巣の工業系デザイン会社からの依頼で昭和60年に仕上げたもの。実はこれは2集目で、この2年ほど前に取材までして自分では思い入れのある第1集があるのですが、印刷物を保存した大切なファイルが未だに見つかりません。嗚呼。
(寄りかかるのは椅子の背もたれだけ)という座右の銘をどこかで読んだことがあります。自作の杖は頑丈に作ったつもりですが、なにせ虫食いの枝を使っているので、杖に体重をかける歩きはしなくなりました。(この杖危険!)と、頭の何処かで杖に頼らないように信号が出ているんでしょうか。
手に馴染んできた自作の杖を、乱暴に扱って握り手と鬼ぐるみの枝の繋ぎ目で折ってしまい、紫檀の心棒をアルミの直径4ミリ、長さ14センチと長めに入れ替え、少し遊びのデザインを加えて一日がかりで修復しました。
ついでにT字の握り手の方の形が中途半端なので作り直しにとりかかり、把っ手を同じ材料の紫檀で切り込みを始めたところでタイムアップとなりました。
秋も深くなってきたせいか、左半身の手(腕も)足が重く固まってきたように感じます。左足装具はリハビリ訓練に行く時だけ使い、装具無しの日常の訓練は不自由でも頑固に続けています。 また暖かくなる季節が来るまで我慢大会ですね。ま、仕方がありません。
二幕目の人生を送っているリハビリ仲間も、徐々に知り合いが増えてきました。
個人情報の保護とやらで、しばらくリハビリ訓練に顔を見せない人の憶測が飛び交い、心配がつのります。
それでなくとも冬の寒さは体に堪え、気持ちも塞ぎがちになります。
年寄りとはいえ、あの日本の政治家たちの元気とパワーは一体どこからきているんでしょうか。・・・・・嗚呼(タメイキ)!。
在籍わずか三ヶ月弱の工業系デザイン会社から、1990年に依頼されて描いた小型圧縮機の特徴や用途などの説明した小冊子です。
天気予報では、昨日の夜半にかけて雨か雪となっていましたが、どうやら予報は外れたようです。
病後半身麻痺も3度目の冬を迎え、厳しい現実を半ばヤケで楽しんで(?)います。
ここ数年使用頻度の殆ど無いファクシミリのリース契約を解除しました。
今日午前中に業者が引き取りに来る予定で、部屋から出し易いようにと先方から注文され、そのままでは脱せないので、昨夜から仕事部屋のプチ改造。
大ごとだったのは、21インチの旧モニタで、片手では無理なのでベルトで輪にして首に掛けて持ち上げ、右手でモニタを支えたところ、麻痺の左足が意志に反して床から浮いてしまい、右足を軸になんとか横の机の上に移動。いや、危なかったのなんの。冷や汗三斗でした。
またもや天気予報はハズレ。
仕事部屋の改造はリハビリ訓練の送迎車がくる直前まで続け、帰宅後はさすがにダウンでした。
ところで、話題は先日のリース契約解除後の、ちょっと気になる出来事がありました。
リース会社と契約している運送会社の社員二人が、ファクシミリを当日指定時間通りに運び出したのはいいのですが、問題はそれから
自社製品に愛情がないのか、ファクシミリの会社の社員は、契約時だけ熱心で、契約解除後は引き取りに立ち会いは無し。当然かも知れませんが、せめてファクシミリを電話と繋げて設定した以前の状態までやって欲しいものです。
ファクシミリを運びました、電話は繋がっていません。後は野となれじゃ困りものです。
大手の誰もが知っている会社ですが、今後、どのような契約も腰が引けてしまいます。
スタミナ充電中(?)。
脳卒中の症状が頻繁に現れる2〜3月の真冬の、この時期にテレビの健康番組でよく脳卒中特集が取り上げられます。
中高年の働き盛りの人たちは毎日血圧を測って予防に努めている割合はどのくらいなんでしょうね。
脳卒中で倒れて彼岸に一直線に向かわなければめっけもの。要介護の認定を受けてしまえば、一日中炬燵に入ってテレビの前で動かない、なんてわけにはいきません。
怠けと諦めで麻痺は確実に進行して体は固まってしまいます。
さすがに鉄壁のナマケモノの私でも歩けなくなる恐怖には勝てません。
リハビリ訓練で、70代〜80代の諸先輩方と仲良く(?)させてもらって最近気づいた事があり、十数年前まで(世間を賑わせた)美人だったのではと思わせる女性がかなりの割合でいるんですね。
聞くと脳梗塞や難病の発症時期が5〜60代初め頃。私の仕事関係の知り合いにもとびっきり美人の女性が何人かいたんですが、・・・ちょっと心配ではあります。
仕事部屋大改造が済み、やっと一息つけるかと思ったのもつかの間、確定申告がまだ手付かずでした。
今度は数字と格闘の日が続きます。ヤレヤレ。
以上、日立ベビコン読本でした。
先日の定期検診で、今の体重を維持継続が望ましいとのことでした。
毎朝血圧と体重は記入しており、健常時は理想体重だった63.6kgを現在は上下。不自由な身となり、これだけは喜ばしいこと・・・なのかな。
私の通うリハビリ訓練所(以降デイリハ)は代表者の相談員と看護士、それに介護士は5〜8人が対応してくれています。
60〜80歳代の難病や麻痺などの患者さんたちを介護する、理学療法士を兼ねる20〜30歳代の介護士の仕事量は半端ではありません。
午前と午後組それぞれ30人が定員とのことですが、天候や気圧の変化で休みが出たりで、たまには20人を割る日もあります。
で、その介護士の運転で、ドア・ツー・ドアの車の送迎、準備体操の後、日常使えなくなり、硬くなった関節を動かすスリング体操とマシンを使ったパワーリハビリを二手に分け、休憩の合間合間に水分補給を一人一人に促すなど、
先日のリハビリ訓練中に、腰痛で苦しんでいる、一番下の姉から電話がありました。
二ヶ月程前に姉に頼まれて、インターネットで7〜8件の千葉在住の腰痛の名医の情報を送り、その中の一人に診察日が半月後に指定され、激痛で苦しんでいるのにと、その時は文句たらたらだったと耳にします。
その自分で選んだ腰痛の名医の一人に診てもらったところ、手の施しようが無いと、治療を拒否されたとのこと。
樹齢100年の木がざらにある環境のなか、農村で育って、幼稚園時代はカマキリやダンゴムシで遊んだという女性が、結婚適齢期頃から一変して、虫の姿が目に入ると大袈裟といえるほどパニック(?)になるのを目にします。
先日も、送迎中にハンドルを握っている介護士の女の子に、柿の木にいるイラガでも、よく見るとフォルムは完璧だし、日に体を透かした体は、半透明でうっとりするほど奇麗な若草色で、例えるとコンニャクゼリーのよう・・・。言った途端。今後コンニャクゼリーは、思い出すと食べられなくなるからこの話は無し。と抗議されてしまいました。
三代目三遊亭円歌さんの落語に、「中沢家の人々」というご自身の人生を語った爆笑落語があります。
子供の頃からの吃音を噺家になれば治ると考え、落語家になりたいと親に願い出た時に、突然殴る蹴るの乱暴を受け、「感動!」の一言で家から追い出され、戸籍まで抜かれてしまったそうです。
当時は落語家という職業の社会的な地位は、今と違って随分と低かったんでしょう。
縁は異なもの、類は友を呼ぶ、夫婦は似通った者同士、マイナスとプラス、相反するように見えても、うまく生活して行けるようです。
と、噺家の台本のような【まくら】となりました。
夫婦も師匠と弟子の関係も似通っているのではないかと思います。ので、先日の続きの、三代目三遊亭円歌さん。
二代目円歌さんの弟子になって驚いたことがあったそうです。
吃音を直したい!との理由で師匠を選んだ相手が、よりによって当人以上にひどい吃音だったとのこと。たしかに落語は立て板に水で流暢なのですが、日常は円歌さん以上の吃音だったとのことです。
京都の由緒ある寺の跡継ぎの座を嫌って上京し、当時は学生運動華やかなりし頃でしたが、自ら飛び込み、角棒ふるって暴れ回って何度も警察の厄介になり、未だに警察のブラックリストに名前が残っているという一人の団塊世代の親父がいます。
その大悪親父の母堂が彼岸に逝った当日に、親類の坊主に悪態をついて「あんたなんか、葬儀にこなくていい!」(原文のママ)と昔の悪癖が噴出、天台宗の坊主のお経の後で、喪主の挨拶では親鸞の話をし、担当の釜番の「スイッチ・オン!」の声を待たずにスイッチを入れ(原文のママ)、
「君が浮気をして、奥さんを泣かせるようなことをしたら、はり倒すからな!」
もう40年以上前の事で記憶も朧げで、正確に覚えていないが、こんなような意味合いの警告を、結婚式を終えて一休みしていた私に突然、突きつけた男がいました。
その数年後にその男は、事もあろうに自分の娘と同じ名前の源氏名のホステスと浮気をして、夜中に寝言で横に寝ていた女房にバレて、丁度居合わせていた私の目の前で夫婦喧嘩までして本性を証明してくれました。
そのすったもんだの最中ずっと、「俺にはすぎた母ちゃんと思ってる」の一点張り。
吉本の漫才のネタになることを現実にやった間抜けな自称愛妻家の話でした。
(事実は小説よりも奇なり)でも、こんなのはバカバカし過ぎて漫画にもなりません。
ゴールデンウイークが終わりました。
といってここ十数年は行楽地に行くなんてこともなく、先日はいつものガソリンスタンドで給油した時に、タイヤが限界で変え時にきていると言われました。
そういえば先日10万キロを超え、中古で手に入れた車ですが、延べにすると年に1万キロ以上は走っている計算になります。
半身麻痺も諦めなければ、リハビリ訓練で薄紙を剥がすように、ゆっくりと麻痺が解けるようですが、これが当人とすれば自覚が無いだけに歯がゆい思いをしています。
歩行も、以前よりは危なっかしく無くなったと言われます。
が、日常ではあい変わらず(サーカスの綱渡りのような)歩き方で、改善しているとは思えません。
今は衰えている左足大腿部の筋力をゆっくり付けていく時期と考え、つとめて階段で練習することにしています。
友あり遠方より来る。数年ぶりに敬愛する友人から懐かしい声の電話があった。
共に還暦過ぎで久々の長電話。一日があっという間に過ぎてしまう話から、気力体力が続かなくなったことなど。
私の方はカタツムリの歩みのようだが、お互い少しずつ前進していることを確認して、明るいニュースを頂いた。
後日このニュースが発表できればいいんですが、好事魔多し。気を引き締めて粗忽の漏れがないよう、自然体で行きます。
1994年(平成6年)のニホンダンダ創業50年の記念に、珍しい絵本形式の社史に関らせて頂いた。
DGくんとは、ニホンハンダが開発した真空脱ガスハンダ(DGハンダ)のことで、1891(明治24)年創業から現在までのニホンハンダのあゆみにネビゲーター役で登場したキャラクター名です。
ここ半年、木工模型を作るための電動治具作りに大わらわでした。
昨日ようやく(とりあえず完成)に漕ぎ着けました。
本日は具合をみるため試作してみることにして、写真を撮り、明日このブログでお披露目するつもりです。
『ハイラム君乾杯」などという、殆どの人の記憶に無いであろう昔々のアメリカのテレビ番組を思い出したところ、昔の記憶がぞろぞろと甦ってきた。
ついでに「映画の友」の昭和36年増刊号を引っ張り出して、子供の頃の記憶の続きを見るつもりが、横道に逸れていき、視聴率のページで、日米のテレビ番組の比較にはまってしまった。
テレビ創世記の頃の輸入番組名で珍しく反響があったので、横道を逸れついでに、同じく昭和36年の映画の友の週刊番組表から。
日曜日の5時15分という中途半端な時間からNET・10ch「ハイウェイ・パトロール」。
6時から、フジ・8ch「パパ大好き」10ch「珍犬ハックル」。半から、NTV・4ch「怪傑ゾロ」TBS・6ch「ポパイ」。
昔の記憶が突如甦るのは、何気ない些細な事柄一つでスイッチが入ってしまう事もあるんですね。
昨日のブログの更新で昭和36年のTVドラマ週刊番組を打ち込んでいた時でした。
日曜日、7時半から《ポパイ》と文字を入れたときに、当時のTVマンガの「ポパイ」のコマーシャルソング(?)が徐々に繰り返し鳴り出し、昨日は一日中頭の中でグルグル飛び回るように、五月蝿く鳴り出続けるという妙な経験をした一日でした。
昭和36年10月当時(東京中心)のアメリカTVドラマ週刊番組の続きから、
水曜日。5時15分〜45分に、フジ8chで「第8救助隊」、
6時15分〜45分、夢中になって見ていた「ミッキーマウス・クラブ」、
7時30分からTBSで「ライフル・マン」中一の頃のご贔屓番組でした。
家族のなかでチャンネル決定権を持っていたのは、一番下の6歳違いの六女の姉だった。
この姉の好みは、時代劇と歌謡曲。当時のTVスターのなかで、彼女の大ファンだったのが中村竹彌(?)と島倉千代子。
私以外は皆社会人だったので、兄弟が会社から戻るまで、少なくとも夕飯までは自由でいられた。
最終日の土曜日も、家族団らんで比較的チャンネル争いのない番組が多かった。
昭和36年「映画の友」臨時増刊/テレビ・スター特集号/外国テレビ映画週間番組表(東京中心)から土曜日。
7時台は6chで「わんぱくデニス」8ch「スミスという男」10ch「ウエスターン特急」
今年の梅雨明けは来月半ばまでのようです。
麻痺も退院3年目の今年が一番キツく、左足の底面がすんなりとまともに床に着きません。
ま、こんな時期もあるんでしょ。
これも夏に向かえば症状も穏やかになるのではと、何の根拠もないですが思っています。
後年、映画を見るようになって、当時馴染みだったテレビ俳優を見かけるようになった。
その出世頭が『ローハイド』の脇役(?)だったロディ役のクリント・イーストウッド。
最初に見たのがマカロニ・ウエスタンの「夕陽のガンマン』。マンガみたいなヒーローでしたな。
『拳銃無宿』のスティーブ・マックィーンも、「荒野の七人」「大脱走」「ブリット」等、立て続けに大ヒット、独身時代の頃は金を浮かせる為だったかして、映画館ではなく実家で見たように記憶しています。
今から15年ほど前に、TBSラジオで大橋巨泉の「ジャズABC」という番組があった。
ジャズのスタンダードナンバーのタイトルのAから、名盤を巨泉さんがセレクトして紹介するというもので、『スターダスト』ではベニー・グッドマン・セクステッドやライオネル・ハンプトンなどの演奏の合間に説明が入って、作曲者のホーギー・カーマイケルが「ララミー牧場」のウィリー役で出演していたことを知った。
残念ながらわが家では、当時の大人気番組だった「ララミー牧場」は他のチャンネルに回されていたので、見たくとも後の祭りだった。
三女の姉の連れ合いの兄、といっても付き合いは無かったがその遺産分けに、大型のスピーカーを頂いたことがあった。
独身時代にアルバイトの休み時間などで入った「ウイーン」などの喫茶室の思い出があったので、その頃からの夢だった【クラシックを目覚ましに朝を迎える生活】が手に入ると、クラシックどころか、落語のレコード三昧。
それも始めの頃までで、日常は手間がかからないテープのに替わりましたが。
不思議なもので、レコードの音とCDのクリアな音を聞き比べると、同じ曲でもレコードのほうが丸く(?)まろやかに耳に入ってきて、CDは音が尖って神経に刺さります。
仕事中のBGMは私にはアナログの方が合っているようです。
愛猫の雲隠れ半蔵が彼岸に旅立って一年。
無類の猫好きがリハビリ介護士に一人居て、その介護士の運転の送迎車に乗り合わせたりすると、最近BSで放送している岩合光昭さんの「世界ネコ歩き」の話になる。
彼女の場合ペット禁止のマンションのようで、私の場合は未だに縁が繋がらない。
週二のリハビリ訓練の休憩で、いつものメンバー間の雑談はネコならぬメダカ談義がこのところの話題となっている。
十一代目市川海老蔵(当時は七代目市川新之助)主演の、平成14年に一年間に渡って放送されたNHK大河ドラマのストーリー紹介のムック本(前編)に描いたものです。
上の絵は宮本武蔵が13歳の時の、1596年(慶長元年)から巌流島で佐々木小次郎と闘った1612年(慶長17年)まで60数回の戦いをしたうちの、相手の名前と場所の記録が残っていた18戦の記録です。
毎年暮れに、原宿のキディランドビルの道路を挟んで真向かいのビル(渋谷区神宮前4−26−18 原宿ピアザビルB1)で、12人のクリエーターが開催する展示会が20年目を迎えました。
メンバーは絵本作家や、人形作家、イラストレーターなど第一線で活躍するクリエーターたちです。
そのなかの一人の敬愛するイラストレーターで、あべつせこさんから声を頂き、ゲストに招かれることになりました。
私は色鉛筆時代の作品と新作の2点ですが、一枚マンガを3Dで、歯車6枚で動く素材が全て木のオートマタ作品を製作中です。
5年前に、愛車で四国まで行って、讃岐うどんの名店巡りを計画したことがあります。
今までの罪滅ぼし(?)で母親を誘って親孝行を考えたのがいけなかったのか、直後に脳卒中。嗚呼。
上の絵は四国八十八ヶ所を、車やタクシーなどではなく徒歩遍路で踏破した経験談です。
昭和30年代後半〜40年代前半に、関東のテレビでも上方の演芸を頻繁に目にする機会があった。
中田ダイマル・ラケット、砂川捨丸・中村春代、島田洋介・今喜多代、若井はんじ・けんじ、ミスワカナ・玉松一郎、海原お浜・小浜,かしまし娘、宮川左近ショー、フラワーショー等々、楽しませてもらったものでした。
今朝は起き抜けに、レツゴー三匹のジュンが、脳出血で急逝のニュースが飛び込んできた。
ライブでは直接目にする機会も環境もなかったが、漫才活動はとうに休止して20年以上経っていても、こんなに急に彼岸に旅立ってしまうとは思いもよらなかった。
私にはせっかちでキュートという奇妙な芸風に感じ、特に三匹のなかでも一番のファンだった。
今日は全盛だった頃の上方演芸会のテープを聞きながら冥福を祈ることにします。
急の豪雨や短い晴れ間、気圧の変化に体がうまく対応出来ない日が続いています。
やっと手に入れたベルト・ディスクサンダーも、雨模様が続く梅雨には木屑が舞い散る外作業が出来ません。
ならば断・捨・離をと、昔録画して捨て切れていないVHSテープを処分するつもりが、確認のため手を取った一本の後半に、MLBワールドシリーズ2009最終戦で、松井秀喜が冠を取った総集編と、2009年11月のMBO世界ウェルター級タイトルマッチ「マニー・パッキャオVSミゲール・コット」の一戦が録画してあった。
テープの劣化が進んでいて見にくかったが最後まで堪能、結局この部分だけ切り取って保存と、断捨離の意識が消えた日となった。
身長から割り出した理想体重の上下の許容範囲がどのくらいなのかは分からないが、毎朝起き抜けにチェックしている血圧表と体重記録を、先月の定期検診で見てもらった。
とりあえずは今の生活を維持出来ていれば大丈夫だという。
が、ストレスや水を飲んでも太る体質は昔から変わらず、梅雨時は木工作業が極狭の仕事部屋のみの、木屑が舞い上がらないような作業に限られてしまいます。
先日も曇りのち雨の日に雨模様を気にしながら、縁側にベルトディスクサンダーを出して作業中、突然雨粒がかかり始め慌てて中断と、こんなイライラな日が続いているので徐々に体重はレッドゾーンへと向かっています。
アメリカの木工作業環境を見ると、羨ましい限りです。
古巣の、在籍三ヶ月ほどで出てしまった工業系デザイン会社から依頼された、フリーランス初期の頃の思い入れのある作品です。
その後2004年に、日経ビジネス『ASSOCie』で描いた「ニッポンの仕事場」〈このホムページにあるカテゴリ欄の6・d)の職人鳥瞰図として、日付けは2010.2.14〜参照してみて下さい〉や、2008年九州国立博物館に取材した、フレーベル館発行の『おおきな博物館』〈カテゴリー6・a)きゅーはくの絵本として、日付けの2011.10.28〜に載っています〉など、商業絵描きとしての私の大きな財産になった仕事の原点ともいえるものです。
いったい何処にあるガソリンスタンド?と、思われるでしょうが,この絵を描いて40年近く経っています。
今はニッポン中探してもこのようなのんびりした雰囲気の仕事場など無いでしょうね。
先日の父の日に、埼玉県内で人気のうどん店をインターネットで検索して、前々から気になっていた店がヒットしたので行ってみた。
辺鄙な場所にある店で少し迷ったが、午後2時近くでも駐車場は満杯だった。
店から出て来た客は一応に満足げで店内は混雑していたが、少し待たされただけでその有名店のうどんを賞味してみた。結果は「行かなきゃ良かった」でした。
書き込みでは賞賛が多かったが、天ぷらは口の中を傷つけてしまうほどエッジが尖っていて硬く、手打ちうどんも普通の何処にでもある硬めの田舎うどんだった。
私が通っているリハビリ施設の近くの店も、人気うどん店らしく駐車場はいつも混雑で、駐車係が数人で国道整理するほどだが、周りの経験者に聞くと一応に、「二度と行きません」でした。
こと味覚に関して、インターネットの書き込み評価は当てにしない方がいいようで、散々な父の日でした。
印刷物になっても、チェック機能が働かず、描いた当人も見直しをしていなかった粗忽の一枚です。
塗装する前にガラス面やゴム枠をカバーせず塗装することはありえませんが、見落としていたんですね。
なんでこんな絵を描いてしまったんだらう。
気働きの無い恥ずかしい絵を描いてしまいました。反省!
梅雨時の気候変動激しく変化するこの時期は、体調維持が大変で、私も一日中重い荷物を担いでいるようで、ダルくてたまりません。
デイ・サービスでも、リハビリ訓練を休む人が多くなってきています。
一見ハンマーで叩かれてもビクともしないような体型のコジャック親父もここ2週間、顔を見ていません。
個人情報禁止が徹底しているだけに、妄想が膨らんでしまいます。
鉄工所内部のような味噌倉。
こんな所で作った味噌など、口に入れたくないものです。
これも粗忽の一枚でした。猛省デス。
【卵が先か鶏が先か】分かりませんが、7日のスクラップ・アイデアノートに描いた悪戯書きと、時期的には同じ頃だったように思います。
アイデアは、締め切りに追いつめられてからでないと出てこないので、いたずら描きの方が先だったかも分かりません。どちらにしても発想の幅はあまり無いようです。
掲載誌は、旧社名だった頃の福武書店の進研スコープ1983年9月号です。
一枚漫画の締め切り日に、少し余裕がある場合、上の絵のようなイタズラ書きから始まります。
この時は、万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像が脳の片隅に現れたのか、私なりの天才の風貌とはどのような表現になるか探ってみたものです。
この絵も1980年代始め頃だったと思います。
ダ・ヴィンチが生前(1452〜1519)に発明した人力羽ばたき式飛行機や、自走式カート、戦闘馬車、戦車、連射式クロスボウ、果ては(人型や動物)ロボットまであるなかで、とりわけてユニークなのはヘリコプターがあります。
歯車などは紀元前80年にはすでに発明されていたし、時計は紀元前27年に出来上がっていて、これなどはダ・ヴィンチが目にしていたかは分かりませんが、ヘリコプターなどというとてつもない発想はどこから生まれたのか、発想の源は存外身近にあったかも知れないということで、私なりに七転八倒してみました。というラクガキです。
二日程ホームページをお休みしましたが、ダ・ヴィンチ関連の絵を探してようやく思い出して、また続行です。
ダ・ヴィンチの頃より生理学は進んできましたが、情報漏洩の方の法整備は、・・・ねぇ。困ったもんです。
旧社名が福武書店の発行。
高校二年生が対象の月刊誌(だったと思います)の『進研スコープ』1984年3月号です。
商業絵描きとして、良い意味で鍛えられ、(絵を描くうえで)目一杯楽しんで、遊ばせてもらった仕事でした。
(進研模試・進研ゼミの受験と進路の情報誌)のサブタイトルが付いた「進研スコープ」1984年3月号。
進研模試・進研ゼミの受験と進路の情報誌『進研スコープ』1983年7月号。
旧社名時代の福武書店、現ベネッセ・コーポレーションの発行。
昨日は,朝7時半に館林に向かって出発。
9時15分に母親を拾って東北自動車道に乗り、岩槻で降りて、野田の一番下の姉(私のすぐ上だが、6歳違い)の家に着いたのが10時半。
二度の脳梗塞と、転倒で3度の腰の手術で重いダメージを負った姉を乗せ、保土ヶ谷の菩提寺に着いたのが13時過ぎだった。
いずれ自分たちが世話になるであろう寺の、施餓鬼供養の途中で抜け出して帰宅のとについた。
野田で姉を降ろし、館林市当郷町のNiwaというお気に入りの喫茶室で、遅い休憩を三人で取り、母親を実家に戻した後、20時45分に帰宅。
総延長449.4キロ、約14時間の長距離ドライブは、三婆のトイレが最重要課題でした。
館林の往復と、岩槻インターから野田、横羽線〜菩提寺のみ一般道であとは高速を使い、帰省ラッシュに少しだけ巻き込まれたが、病気前の体力復活が実感できたような旅になりました。
進研模試・進研ゼミの受験と進路の情報誌「進研スコープ」1984年11月号。
旧社名が福武書店の発行。
旧社名当時は福武書店発行の、サブタイトル(成績UPできる学習情報誌)「高二Challenge」1988年2月15日号。
(成績UPできる学習情報誌)のサブタイトルがついた「高二Challenge」1988年3月15日号。福武書店発行。
サブタイトルに、成績UPできる高校学習情報誌の、「高一Challenge」1988年4月1日号。 福武書店発行。
サブタイトルに(成績UPできる高校学習情報誌)、「高一Challenge」期末テスト必勝号1 1988年6月1日号。
福武書店発行。
1988.7.1 学習情報誌、「高一Challenge」夏休み準備号。
福武書店発行。
【高一CHALLENGE】夏休み特別号 サマーフェスティバル。
1988年8月1日号 福武書店発行。
「高一CHALLENGE」1988 9/1 特集 2学期の学習術決定版 福武書店発行。
この絵を描いていた頃より、約10年前に、フリーの商業絵描きの荒波に飛び込んで 、最初に仕事を貰ったのが集英社。
週刊プレイボーイ編集部の山田和夫さんに拾い上げて貰い、デラックス・プレイボーイの創刊から、チームを組まして貰ったのが、当時神田にあったエヌピー出版の代表者だった佐々木元彦さん。
その頃から佐々木さんに声をかけてもらって、この仕事も、これ以降もしばらく仕事を頂き、仕事の中で遊ぶということを教えて貰った、この二人が私の最初の恩人。
「高一Challenge」特集 数学の10点UP術 1988.10/1号。福武書店発行
起き抜けにテレビを見たら、数年に一度の大寒波襲来と、天気予報があった。
爆弾低気圧で、北・西日本では猛吹雪に見舞われている映像が流れている。
が、かたやエルニーニョが数年ぶりに活発のニュースもあり、今年は暖冬との予測を聞いている。
北日本では例年、年明けに休校のニュースがあるが、今年は早々と臨時休校となり、外出はなるべく控えて下さいとのこと。
外出どころか、当方は、仕事や作業に没頭すれば、座業なので動くことはままならない。
かといって、動かなければ体が固まってしまうし・・・いやはや困ったモンデス。
上の絵は、福武書店発行「高一Challenge」1988.12/1号。
高校学習情報誌「高一Challenge」1989.1/1号 福武書店発行。
小学館から発行している「小学二年生」の、1999年6月号から9月号までの本が出てきた。
当時発行されていた諸々の雑誌に、読み物が少なくなっていたのを理由に、復活を込めて、昆虫紹介の読み物としてこの本で連載されました。
著者の矢島稔さんは、現在群馬県立ぐんま昆虫の森園長で、東京動物園協会発行の「インセクタリウム」誌を立ち上げた方と聞いています。
この矢島稔さんをモデルに、男女2名の子供たちが昆虫世界をナビゲートした22話に、出版に際しプラス1話を追加して、2001年8月に上の表紙で一冊の本に纏められ、発行されました。
この本の出版直前に急逝した、担当編集者だった玉田聡さんの追悼を込めてこれからしばらく紹介します。
もし、宝くじが当たったら・・・、一年に何度か耳にする話だが、年金生活者として、現実味の無いことには、手を出さない(出せないのが本音)ことにしている。
四半世紀前の平成元年に、第一勧業銀行宝くじ部の冊子「’89宝くじのしおり」に関わらせてもらったことがあった。
このなかの、宝くじこぼれ話のページに、高額当選者の体験談に絵を添えさせてもう機会があった。
夢のまた夢を現実に手に入れた人たちに、興味が湧かない訳は無いが、実際は、後日談の方がもっと知りたかったのが本音です。
落語に【水屋の富】という噺がある。
裏長屋に住み、江戸の町中へ水を売って歩く商売の、独り者の男が千両富に当たった。
一日中、重い水桶を担いで売り歩く過酷な商売なので、千両が頭から離れず、気が休まらない。
富が当たった翌日から、一晩でも安心して眠ることが出来ないでいた。
不眠症が続き、これでは体が持たないと、一計を案じた男は千両箱を床下に隠して取りあえずは一安心。
ところがそれでも心配と、毎朝商売の出がけと帰りに長い竹竿で床下の千両箱をつついて確認していたが、ある日その不審な行為を、長屋の住人の一人に見られてしまって、このお宝が知れて盗まれてしまった。
その日の仕事帰りにいつもの習慣で床下を探ると、竹竿の先に当たりが無いので、床下を見ると、千両を盗まれていたことが分かり、茫然自失。
気を取り戻した男が、ため息混じりで一言。
「これで、やっと安心して眠ることが出来る」
サゲが【愛宕山】と同じで、持ち付けないお宝を逃した男の心情が出ています。
後味が薄味なのも、江戸落語の粋が感じられますが、一寸物足りない気がする噺の一つです。
「富久」「宿屋の富」(上方では「高津「こうず」の富」)「御慶」・・・。
子供の頃から落語を聞いていたわりに、咄嗟に頭に浮かぶ「富」に関する落語のネタはこんな程度。
内容も千両富に当たるまでの話で、気分良く寄席を後にしてもらうためなのか、縁起もののネタになっているようです。
棚ぼた、あぶく銭と言ってしまえば、身もフタもないが、何億?でも懐に入ったらなど、考えている時が一番良いようです。
高額当選を果たした人と、高額当選に気づかず、人生最大の幸運を逃した人の、その後の人生を描いた落語があってもいいんですが、これは無いようです。
喜劇映画の巨匠・チャールズ・チャップリンの名言に「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という、有名なフレーズがある。
迷い道の途中で、大金が手に入るチャンスと耳打ちされれば、なけなしの銭をはたいてまで、行動してしまうかも知れない。
また、聞きかじりの落語のまくらですが、「ひもじさ(生活)と恋(夢)を比ぶれば、恥ずかしながら、ひもじさが先」。
高額の当選宝くじを、期限切れで分かれば、どん底にたたき落とされたと感じるが、万年青年の落語家、春風亭昇太師匠は、アクシデントに逢った時やどんな時も、こんなところで運を使ってはもったいないので、後々のため運を保存したと思えば気が楽になると、トーク番組で言っていた。
これも名言(迷言?)かも知れない。
宝くじに当選した方法は千差万別、幸運を手に入れた人と同じ行動は無意味。
「買わなければ、当たりません」は、「買ったところで、当たる気遣いはない」と、考えると夢はないが、がっかりすることも無い。
無駄な出費は木材や工具の備品に充てた方が生活は潤うし、精神的にも良いので当分の間は、【宝くじは自分に無縁】のようです。
小学館発行の「小学二年生」1999年7月号。
現在の月刊誌事情はよく分からないが、半世紀以上前の月刊誌は、看板マンガの「鉄腕アトム」「鉄人28号」「赤銅鈴之助」「月光仮面」等々の載っていた「「少年画報」「ぼくら」や「少年」に付いていた付録が、本誌の間に挟まって、大人の手でも片手で持つのは難しいほど膨らんで、書店でうずたかく積まれて売られていた記憶がある。
当時我が家では、こういった月刊誌を子供に買い与えてもらえるほどの家庭事情ではなかったと思うが、親類に貸本屋があったので、一〜二度だけだが(付録)をもらった記憶があった。
本誌の写真入りの説明で、乗り物や建物でもすべて紙製の見事なフォルムで、仕上がりは結構大きかった覚えがある。(記憶は不明です)
で、案の定完成は出来なかった。
が、付録が豪華というのは、買う上での最大の魅力で、今も昔も変わらないようです。
この掲載誌に付録まで頂いた訳ではないが、付録はかなり苦心していたように見受けられた。
母親の用事で、ドライバーを勤めた一昨日、長い間会話をしていなかったことで、長年思い込んでいた父親の職業が箪笥職人ではなく、指物師だったことが判明した。
では何故箪笥職人と間違って覚えていたのか?
自分でもよく分からないが、父親兄弟は皆指物師や箪笥などを作る生業をしていて、子供の頃、父親のすぐ下の弟で、私が大好きだった桐箪笥職人の叔父の所に遊びに行った映像が、家の職場と混同して残っていたもののようだ。
ちなみに、頑固一徹で苦手だった父親が亡くなったのは、半世紀以上遙か昔のことで、私が10歳の頃、記憶も朧気になるのに不思議はないと、自己弁護。
その箪笥職人の下の弟は、父親の弟子から出発して、指物師で独立。
後に機械をいれてハコモノを作っていたようで、頑固一徹の親父との仲はそれで想像が付きます。
また、その下の末弟は磨き職人(?)のようで、当時建具などの磨き専門の職業があったようで、今では考えられないが、生業として成立していたとのことだった。
その苦手だった父親の手になるモノで、今あるものとしては、母親の家にある仏壇とのこと。
現在残っている作品に、当人の位牌が鎮座していることを考えると、私のDNAに強い繋がりを感じた1日だった。
導火線が短い、や、瞬間湯沸かし器など、短気はあまり良くないことのように言われる。
確かに、完成間近の作品を破損、なんてことは日常茶飯事で、直後に頭を抱えて自己嫌悪で落ち込むことがある。
祖父であり養父でもあった父も、今の私以上に尋常でなく短気だった。
子供の頃は、何時導火線に火が付くか、毎日ビクビクもので、父の目線に入らない生活をしていた。
私だけでなく、先年身罷った六女の姉も、私の母と同じ誕生日を、二ヶ月遅れで役場に登録したことなど、父との確執は尋常で無かった。
父の亡くなった年齢を追い越した今、昔気質は(ほんの)少し受け継いでいると自分でも思う。
ただ、家族に対しては間違いなく父とは違うと言えるが、母親に言わせると、それでもよく似ているそうだ。
・・・いい年して何時までも自分を否定してはいけないし、認めてはいるが、・・・困ったもんです。
リハビリ訓練は、そろそろ5年目に入る。
諸先輩たちと毎回顔を合わせていれば、私は人と会話をするのが苦手な方だが、それでも自然と会話が始まる。
ここへ通ってくる人の割合で、驚くほど交通事故で、歩行困難の人がいることに気づいた。
昨日は、そのなかのお一人で、喜寿の元板金職人の人と隣り合わせの席になり、お互いの情報交換が始まったのはいいのだが、こちらの会話が始まると、相手の顔が途端に無表情になり、目が虚ろになる。
年齢を考えれば分かることだが、かなり耳が遠くなっていることが後で知れた。
その方は、15年前に停車中後ろからダンプに追突され、首の骨と、腰骨がクラッシュして、長期入院で生還したとのこと。(首の骨を折っても、歩けるほどになる人もいるんですね)
訓練所内で、最初に見た時は両手でストックを杖代わりに歩いていたが、今はカートを補助にしている。
現役時は100キロを超す体重だったというが、今はかなりスリムになっていてその面影はない。
事故後、糖尿が発覚し、先月大腸がんを直し、人工肛門になったが快適生活を送っているという。
で、当方の会話は、半分も通じていたのか心許ないが、相手が会話した事で気分が軽くなれば、話が成立しなくとも結果良ければですね。しかし、・・・少し(どころでは無く)疲れた。
「一人で大丈夫?」こんな何気ない会話で、導火線に火が付いてしまった。
こちらの体を心配しての、声かけと重々承知している。が・・・。
歩いている途中に、声をかけられただけでも、【動作が凍り付く】とまで言わないが 、けつまずいたように急に体が固まってしまう。こんな不思議な症状を何度も経験している。
先日も、作業台に固定した14キロの重さがあるベルトソーを下ろし、玄関から車に、転倒や工具を床に落とさず、無事に右手だけで乗せる、
たったそれだけでも、次の動作を安全に注意深く考えながらの、自分には大変な作業となる。
その集中した考えの途中に、声をかけられただけでも、動作が突然止まってしまって危険この上ない。
今まで何度も、黙って見ていてもらった方が安全だからと、家内に頼んで耳に届いていると思っていたが、とうとう怒り心頭。うっかり怒鳴ってしまった。
気を大きく、相手を思いやっていれば、こんな感情はは生まれないと、自己嫌悪に陥っています。困ったもんです。
【ジョージ・パル】という名前のアメリカ人で、ストップモーション・アニメの作家がいた。
途中で映画の方に転向してしまったので、アニメ作品としては多く残っていないが、非常に凝ったアニメとして記憶に焼き付いていた。
昔々のごく短い制作期間の作品だったので、ユーチューブで検索しても、音沙汰無し?だったが、昨日はようやく、半世紀以上見ることが叶わなかったアフリカ系アメリカンの少年「ジャスパー」のシリーズに巡り会えた。
記憶に鮮明に残っていたのが、モノクロの人形アニメだったが、考えてみれば、当時のテレビは白黒だったので、カラー作品だったことに思いもよらなかった。
また、ジャスパー以上に恋い焦がれていたアニメで、鉄道線路抗夫?の「ジョン・ヘンリー」まで作品が残っていたので、大感激だった。
現在、一枚マンガの世界を3Dで、カラクリのオートマタにして、作るまで行き着いたオオもとに、このジョージ・パルのアニメが大きく影響していたのではと思っている。
興味のある方は「ジョージ・パル アニメーション」で、ユーチューブ検索することをおすすめします。CGアニメに慣れた目には新鮮に写ると思います。
【ジョージ・パル】(1908〜1980)の出生は、ハンガリー人でした。
ストップモーションアニメの作家なので、もしかしたらチェコ生まれかと思っていたが、違っていました。
1940年にアメリカに移住、と、その後の活躍は詳しくウィキペディアで詳細が出ていた。
今後広くこの作家の作った【ストップモーションアニメ】のファンが増えていけば、デジタルリマスター版になって、公開当初の蘇った美しい映像でこのアニメを見るチャンスも可能になると思っている。
昭和黄金期(八代目桂文楽、三代目三遊亭金馬、初代柳家金語楼等々、名人上手が犇めいていた時代であっても、寄席は閑古鳥の時代だった昭和30年前後)の落語界の天才、五代目古今亭志ん生の著書『びんぼう自慢』に、描かれている【貧乏を楽しむ境地】にまでいかなければ、一人前になれないのかも知れない。
画学生の頃に、アルバイトで知り合った詩人の卵や、油絵に夢中だった奴、小説家の夢を持っていた若者は今、何になっているんでしょうね。
この頃、この本に巡り会っていたら、私の今は随分変わっていたかも・・・・。
当時はほぼ消滅していた雑誌のなかの読み物を、この月刊誌で復活。
この連載は、ほぼ2年間でした。
この本(ドクトル・ムッシーの昆虫おもしろ ふしぎ探検記 2001年8月 小学館発行)の出版準備直前に、担当編集者の早世ということもあり、関わった人たちの熱意と愛情を、この時ほど感じたことが無く、私には特別な一冊となった。
1999年・小学館発行『小学二年生』9月号。
明けましておめでとうございます。
今年も環境に甘えることなく、カラクリ作品の制作に励んでいくつもりでおります。
本年もよろしくお願い致します。
制作開始から完成まで、三週間近く迷走し続けたこの作品は、天地153㎜、左右126㎜、奥行き100㎜。
使用した木材は、黒檀、カリン、ホウ、栃の4種類でした。
作品完成と撮影後、年賀状印刷の終了は2015年12月31日午後5時半でした。
従いまして、年明けの元旦は家で新年会となり、早朝より母親を迎えるため群馬へ向かい、新年会終了で群馬から帰宅が午後6時、年賀状の宛名書きは、2日に持ち越しとなりました。
七草の日の、今年最初のリハビリ訓練中、コジャック氏の急逝を知った。
昨年の秋口から休みがちになり、ようやく顔を見せた時に、たまにはサボりたくなる時もある、などと聴いていたので、11月頃から顔を見なかったが、心配はしていたものの、氏のことなら大丈夫だろうと高をくくっていた。
大柄で強面、一見豪快な風貌の氏の、病後に加えて年齢なりに体は痛んでいたようだ。
暮れに救急車で病院に運ばれ、開腹手術後、帰宅した翌日に亡くなったと聞いている。
リハビリ訓練の帰宅後、コジャック邸に電話を入れ、せめてお線香をと奥方にお願いすると快諾してくれ、翌日伺うことになった。
翌日は電話が通じない。
午後、邸近くまで行って電話を入れると、家人が出て奥方が朝方急遽入院したと言う。
その足(車)で贈答用の線香を買いに行き、帰宅。
奥方への心配もあり、戦友を失った気持ちとは(おこがましいが)こんなものかと知る。
以前は駅舎の軒下や、自転車屋などの店の中にまで、ツバメの巣をよく見かけたが、ここ数年、外出する事が減ったとはいえ、めっきりツバメの子育てを目撃することが無くなってきたような気がする。
農業振興区域に住み、今頃から雨の降る前など、ツバメが田んぼすれすれに低く飛んでいるのをよく見たが、後継者不足の農家が多くなり、休耕田がいつの間にかマンションなど戸建ての建築物になり、3〜40年前は絵本に描かれていたような【美しい農村風景】が、我が家の周りどころか日本全体から激減しています。
超便利、超面白い、といってスマホなんぞにうつつを抜かしているばやいじゃないと、思うんですがねぇ。
身を粉にして働いていた日常に、便利この上ない機械が働く人の代わりを務め、楽になった人様は超横着になり、使わなくなった脳みそは退化を初め、徐々に大切な第六感が消え失せてきたような感じがします。
てなわけで、日本は何処へ行って仕舞うんでしょうかのこどもの日でした。
上の絵はチャイルド本社刊、チャイルドブック・学習版『かんがえる』2011年12月号からの絵でした。
先日の『大江戸・東京重ね絵図』の後に描いた地図です。
彩色は色鉛筆からカラーインクに変わっているので、四半世紀前頃の地図ではなかったのかと思います。
東京は刻々と変貌しているので、地図としては数ヶ月の寿命になり、すぐに使えなくなってしまいます。
この地図も、浜松町駅のコンコース(赤に色分けてある通路部分)数カ所に置いてもらっていたと記憶しています。
これは、東京動物園協会から発行の月刊「インセクタリゥム」誌(残念ながら2000年12月号で休刊)の昆虫園ニュースのタイトルカットです。
二十代前後の頃、イギリスの古いマンガ雑誌『ロンドンパンチ』に、鳥のマンガだけを発表していたハーブリーグという愛鳥漫画家が大好きだった。(どっこい、今でも)
他にも、車一筋の一枚マンガを発表したブロックバンクという漫画家がいたり、クラシック音楽専門のジェラルド・ホフヌングという超一流漫画家もいて、この人も頑固一徹、音楽一筋の表現で、今でも私は尊敬している一枚漫画家です。
イギリス人という人種の特質のひとつは、我が家の系列にも居て、頑固一徹という印象があり、余計なお世話ですが、これで食べて行けたのかと、心配でもあり、羨ましくもありました。
兎も角、20数年前に突然、動物園協会編集部からお声がかかり、これから昆虫の絵が描けると、小躍りしたモノでした。
1995年1月号から休刊まで、お付き合いさせてもらいました。
1995年5月号から、こんちゅうノート【アブはどうしてハチに似ているのですか?】のカットです。
ウゥッ、ブラウン管テレビ!・・・時代を感じさせます。
昆虫のなかで、何が一番好きかと、問われれば【クヌギシギゾウムシ】。
スターウオーズに出て来るようなメカニックなフォルムに、イメージが次々に浮かび、(妄想?が)膨らんできて魅せられています。
が、あまり好きすぎるのも考えものかも知れません。
猫の額ほどの我が庭に,近くの雑木林からクヌギの苗を抜いてきて20年ほど経ちますが、未だにこのクヌギシギゾウムシは目にしていません。
理由は?「庭木に適さない」からと、毎年、家内が目の敵のようにクヌギの枝を切りすぼめていること・・・・かなぁ。
東京動物園協会発行の、月刊『インセクタリゥム』誌の1996年3月号から、こんちゅうノート「庭の昆虫を見てみよう」の挿画です。
ところで最近、熱帯夜が続いていたこともあり、私の後に風呂に入ることが多い家内から、風呂の湯が低すぎて入れないという指摘(注意)があった。
せっかちな性格からか、のんびり湯船に浸ることは無く、いわば烏の行水なので、別段気にも留めていなかったが、これがいけなかったようです。
この冷えが膝を痛めたようで、ここ十日ばかり右足の膝に痛みがでてしまった。(左膝も痛みがあるような無いようなで、こちらの方はつとめて意識を向けないようにしている)
普段でも、家の中では装具を外した生活をしているので、神経が通っていない左足首の捻挫を十分注意して歩いているため、他人から見れば牛歩などより遅い動きのうえ、右膝の痛みが加わったことで、蝸牛のような前進速度?となってしまった。
教訓・かみさんの言うことは素直に聞いておくべきデシタ。
数日前に、自分の不注意で痛めた膝は、湿布を貼ると改善・・・までいかないが、7割がた完治しました。
まだ若干の痛みは残っているので、油断せず無理をしないよう生活していくつもりです。
・・・ところで、オートマタ制作は、現在休止状態です。
鬼ぐるみの虫食いの枝や、オートマタ制作で出た端切れが、極狭の部屋に溢れかえって、歩行に支障を来してきたので、ただ今それら端切れの再生にとりかかっています。
本誌見つからず、タイトルが不明です。悪しからず。
大施餓鬼法要(祭?)の予定日だった昨日、母親を連れて先祖の墓詣りと、保土ヶ谷の菩提寺へ行ってきた。
朝食抜きで、早朝出発を前もって家内に告げていたが、何やかやと半刻遅れになり、6時45分に出発。
群馬で母親を車に乗せ、東北自動車道・館林から首都高向島線、横羽線の(何故か景色の良い湾岸線は好きになれない)羽田を通って、みなとみらいで降り、お盆に一日遅れになってしまったが、野毛山の(養父母でもある)祖父母が眠る(?)寺に着いたのが10時半。
花を手向け雑草を刈って墓参りを済ませ、保土ヶ谷の菩提寺へ向かった。
途中、高校まで過ごした(今は無き)西久保町の家近くの、コインパーキングで車を止めたのが11時半。
東海道保土ヶ谷宿・街道脇のハンバーグ店で昼食を済ませ、菩提寺着で12時。
早々に用事を済ませ、祭り開始前の13時に帰路についた。
首都高横羽線から、5号線、東北自動車道・館林で降り、実家前で親を降ろし、館林ビバホームでバンドソーの替えを買い、17時半に帰宅。
この日、睡眠休憩が無かったので、体力は少しは戻ってきたのかも知れない。
総行距離360㎞越えの一日デシタ。
電動工具のなかで、使用頻度が一番高いバンドソーの具合が良くない。
原因はコード中央の断線で、日によって快調に作動したり、通電しない時が徐々に増えてきている。
思い切って秋葉原へ、アース内蔵の電源コードを買いに行く方法もあるが、優先順位が邪魔をする。
ここ3日は(自作の特殊)棒ヤスリ作りに精を出し、当面のジービーレーサーや、今後のスクラッチビルドの成形が、無駄なく遣りやすいヤスリ作りをしていた。
そんなわけで他の用事までして、気力体力が続かないのが現状です。
野山に出かけたときに出会った蝶や、オニヤンマなどの他、珍しい昆虫を見つけた時の捕らえ方など。
また、捕虫網などが無い場合の、素手で捕らえる要領を知っていれば、と、成功率の低かった昔の記憶が蘇ってイメージしやすい挿絵になりました。
タイトルは『虫を手で捕る』です。
タイトルは『ゲンゴロウ採りは雨ふりだって平気さ!』の挿絵です。
農業振興区域の現在の土地に引っ越してきた当初は、夏の夕方、仕事帰りに農道脇の草っ原で、(平家?)ホタルを見かけたことが何度かありました。
ほぼ40年前のことでしたが、幻想的なショットが今でも強く脳に焼き付いています。
その頃もゲンゴロウは居たのでしょうが、のんびり見ている生活環境ではなかったので、残念ながらゲンゴロウの目撃はありません。
が、ここ十数年は実りの時期に、田ん中のイナゴを見かけたことも無くなりました。
それが一匹も居ないのが不思議です。
また、十年ほど前に1度だけですが、我が家の日本間に、一匹のアオダイショウ(1メートルほどでした)が無断進入したことがありました。
ゲンゴロウの文字で蘇った招かれざる客と、招いても来ない客の思い出でした。
最近、家の近くで、救急車のサイレンが何度となく鳴り、仕事の手を休めてまで、サイレンの方向が気になって仕方なくなっている。
今年は、家内の幼なじみが立て続けて急逝したもので、70歳も後半になると、体力的にも無理が利くこともあり、知らず冥界の扉を開けていたなんてことがあるようなので夙に気をつけている。
先日も、猛暑のなか、ご近所の(年齢的にも近しい)男性が畑で(雑草を刈っていたのか?)倒れ、救急車で運ばれた時は心肺停止状態だったそうで、そのまま彼岸に向かったと聞いている。
この夏は冷房を付けず生活すると決めていた。
自分でも鉄壁の頑固と認めていたので、それが仇となり最近の木工作業は失速気味となっている。
ま、夕方涼しくなってから、なんて考えは壮年期までのようで、そのままずるずるとベットに直行という情けないことになっている。
『インセクタリゥム』誌1998年4月号の、ゲンゴロウの採りかたについての続編。
【ゲンゴロウを飼ってみよう!】の内容は、水生生物を飼った経験があれば皆同じなのではと思います。
我が家でも、子供たちが小さい頃ゲンゴロウではなく、ドジョウやミズカマキリを飼ったことがあった。
ドジョウなどは思いの外、寿命が長かったという記憶が残っている。
水槽の水替えは、簡単な水替えの方法を知らなかったこともあり、思いの外重労働で、10日から半月ごとに水替えを行い、それが数年(3〜4年?)続いた覚えがある。
不精者の私には不向きな生き物でした。
月刊『インセクタリゥム』誌の編集部に、許可を貰って立体で絵を描いてみた。
ドローイングと違って、また別の楽しみと、今後の発想の広がりの予感と、発展を期待した第一号作品です。
このブログの、 カテゴリー4)3Dカーツーンで、一番最初の2009年6月1日にも紹介があります。
今朝の雨は、九州に接近している台風12号の影響もあるんでしょうか。
猛暑から一転、過ごしやすくなった今、今年の夏は、クーラーを付けずに居たのが原因か分からないが、体がエンストを起こして困っています。
おまけに、このブログに紹介する作品が見つからない!ので、仕方なく2009年7月18日の、このブログから転載しました。
カテゴリー4)3Dカーツーンを開くと、昆虫をテーマにした作品が、インセクタリゥム誌に載せてもらった3D作品になり、ご覧頂けます。
作品は、現在全てが手元に残っている訳ではなく、散逸しているので、今後の展開に頭を悩ませています。
ご近所の知り合いが、次々に熱中症で倒れている。
先日は健康オタクの義母まで、救急車で病院に搬送された。
低体温で震えが止まらなくなり、熱中症のような症状と家内の判断。
近くの病院に入院して約一週間目で、ようやく落ち着いたようで、医者がいうには、血液中に雑菌が入ったのが原因という。
・・・どうやって入った?か不思議だが、義母も96歳。抵抗力や免疫力は低下しているかも知れないが、とりあえず一安心となった。
「ゲンゴロウのくらしを見てみよう!」のイラストです。
水槽に蓋が無いと飛んで逃げていってしまうこと(なにせ、粗忽を自覚しているので)と、餌の心配があること。
他に家人の反対が予想できたので、欲しくとも飼えなかった水生昆虫です。
カテゴリーの、4)3Dカーツーン、2009年11月6日からの転載です。
これも2009年10月20日から転載しました。
詳細は不明です。管理不足を反省・・・後の祭り・・デスガ。
2009年10月19日のブログから転載。
2009年9月26日より転載。
ラフスケッチを整理していたら、今回掲載するはずの立体が、人にプレゼントしたわけではないのに見つからず、その代わり3D制作までの下書きが出てきた。
20年ほど前の、物置の庇用に庭に植えてたブドウの実が、今年は全般的に果物の出来が良かったようで、クセのない甘さに出来上がってきた。
今まで、このブドウの実は食用に耐えられないモノだった。
実際、ブドウの育て方の勉強すらしていなかったので当たり前だが、仕事では随分とスケッチや立体の的に使って、ツルや葉織り交ぜて、収入ひとつとってもブドウの木に助けられていて、大切にしていなかったわりに、勝手なもので好きな植物といえます。
去年までは、実が熟し始めると、ブドウの実がカナブンに喰われ、悔しがっていた家内が、今年は袋詰めなど丹精した結果、満足の年になったと、カミさんはご機嫌だった。
先日の〈敬老の日〉に、地域の集まりでのこと。
自治会のお祝いの会があって、高齢者発表の名に、女性高齢者にまだ入院中の義母が96歳で、男性では義母の兄が104歳で最高齢だったという。
義母の倒れた原因は結局不明のようだが、近日中に退院と聞いている。
退院後は自力で歩けるか、皆が心配をしているが、気力体力は戻ってきつつあると聞いている。
一方、義母の兄は今でも日常の庭掃除を、危なげなくしているようだ。
自力で歩ければ、自分にも言えるが、一応は大丈夫と思っている。
義母の入院で、ほぼ毎日家内は見舞いに行っている。
私はほぼ毎日ではないが頻繁に運転して、見舞いを終えて戻る間の約一時間、車の中で『池波正太郎の銀座日記[全]』(新潮文庫)を繰り返し読んでいる。
十分程度の距離なら、家と病院の往復の間に仕事が出来ると最初は思え、試してみたが、車から降りて家の鍵を開け、装具を脱いで部屋に入り、いざ机に向かうまでの時間と体力は、健常者だった頃の数倍数十倍にもなる。
なら、体力温存と(怠気もあるが)積ん読になっていた本を読む方が効率的となり、図書タイムとなった。
この本は池波さんが平成2年5月に67歳で亡くなる少し前まで、(昭和58年夏から平成2年初春)までの7年間の日記で、旺盛な創作と行動力から、徐々に体力と気力が薄れて、彼岸に向かう日々の様子が、当時のロードショウ映画の感想と、芸能人や、池波さんの友人が亡くなった記録が詳細に描かれ、彼岸に向かうことはどういうことかが伺える。
私の独身時代に、夢は叶わなかったが、一枚マンガで最初のナンセンス作品集のタイトルは『安らかな死期を迎えるために』と決めてあった。
それが終生の自分の生き方のタイトルになっていました。
池波正太郎銀座日記の中から、面白そうな本の紹介があったので、図書館で二冊借りてみた。
一冊は、川本三郎著「スタンド・アローン」で、20世紀に活躍した各界の有名人で、映画監督や俳優、作家、スポーツ選手等々、強烈な個性が描かれている。
ロバート・ミッチャム、フランク・キャプラ、エリア・カザンなど、それほど映画狂ではないが、好きだった映画の監督や俳優の名前に引かれて一気に読破した本。
もう一冊は、キティ・ケリー・柴田京子訳の「ヒズ・ウェイ」。
フランク・シナトラの闇の部分も暴かたというこの分厚い本を前に、これから返却期限日と時間の体力勝負が始まります。
掲載誌のバックナンバーが、数冊不明です。
その不明誌のどちらかに掲載していたものと思われる絵が3点ありました。
暦の上で、今日は啓蟄とある。
冬ごもりの虫たちが、土中から這い出してくるのが今頃、ということになっている。
屋外での木工作業や雑用がなければ、外の空気を吸うことが無いので、庭に出て昆虫を探し回ることをしなくなった。
10年前に谷本雄治さんが書かれた「八本あしのゆかいな仲間 クモ」(くもん出版刊)に描いた絵が一枚出てきたので、啓蟄の日に合わせて発表させてもらうことにした。
厳密に言うとクモは昆虫ではなく、エビやカニの仲間の節足動物ということになっている。
昔から日本では蜘蛛に始まって?蛇や、蝮(マムシ)、蛙(カエル)、蜥蜴(トカゲ)、蚯蚓(ミミズ)、蛞蝓(ナメクジ)、蝦(エビ)蟹(カニ)蜆(シジミ)蛤(ハマグリ)ゲジゲジに至るまで、【虫へん】がついていて、このゆるさが日本人の良いところと思っている。
無自覚で、箸にも棒にもかからない自堕落な中学生活を送っていた頃、一時期だが、このハエトリグモを空のマッチ箱に入れて闘わすことが、学校で流行ったことがあった。
今時の子供に、こんなことを教えたら、どんな顔をされるか、見て見たい気もあります。
2019年の年賀状の絵は、ロバート・オルドリッチ監督の1965年のアメリカ映画『飛べ!フェニックス』にしました。
昨年の自分の体験から願いまで、まさにピッタリの映画でした。
砂漠のド真ん中で、不時着した貨物飛行機を改造して脱出するまで、乗客たちのスッタモンダの中心人物に、自称飛行機の設計士がいた。
結局化けの皮が剥がれるのだが、単発機を仕上げて、砂漠から脱出に成功するからファンタジーなんでしょうね。
もう数十年前に見た映画でしたが、未だに疑問が残っているのが、いくらファンタジー映画とはいっても、鉄の塊が砂漠から離陸が出来たことに納得できない自分がいます。
いくら想像してもやっぱりおかしい。
それ以上可笑しいのが、年賀状をポストに投函した後に、間違いを書いてしまったことが判明したこと。
病院に入院した時に、70度の熱があったと打って気が付きませんでした。
まだ病気のダメージが残っていたようです。
新年早々できの悪いジョークをばらまいてしまいました。
昨日はコロナ禍で約半年ぶりに母親の顔を見る事ができた。
重要書類等、当人の確認が必要な郵便物や、世話になっている介護施設職員にお礼等、台風の空模様を気にしながらの県跨ぎであった。
ここ数年高齢が原因なのか耳が遠くなったので電話での会話が無理になっていた。
こういう時期なので、対面での接触は無しだったが、 体調や顔色など思いのほか元気だったので、とりあえずは安心できた一日だった。
不思議な事に、昨日まで息付く暇なく雑用々の連続だったので木工作業は遅々として進んでいない。
先日は近所のコンビニへトイレを借りに行ったところ、突然体が固まったようになった。
コンビニの冷房の効きすぎが原因なのだが、麻痺を抱えている者には結構ヤバイ状況であった。
その他はオリンピックで日本勢の大活躍やMLB大谷翔平のニュースで、体に悪いストレスは今のところ見当たらない。
東京2020パラリンピックが終わった。
障害を負って十余年。
私は町中をよく外出する方だが、外で障害者を見る機会はあまり無い。
歩くことに不自由なので分かるが、日本の道路事情は障害者に寄り添っていないのが現状だ。
歩行者優先とは名ばかり・・・。
このパラリンピックを機会に、障害者が気兼ねなく町中を闊歩できる日になるのが夢です。
上の絵はフリーランス初期(色鉛筆時代)の、ようやく(満足にではないが)生活できた頃のイラストです。
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